2012年02月05日

迷子の羊を捜す主(ルカ15章1-7節)

天声教会のメッセージを引用します。
元URL: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=753

迷子の羊を捜す主(ルカ15章1-7節)

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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存


イエス様は、群集の頂点で安穏としているお方ではなく、むしろ、迷っている人や弱っている人、見捨てられている人々を探し訪ね、声をかけ、悔い改めに導き、天の王国へと連れ戻して下さるお方である。

パリサイ派や律法学者達がイエス様に、「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、なじった時語られたのは、見失った羊の譬えと無くした銀貨の譬え、そして、放蕩息子の譬えだった。

この3つの譬えを通して、御子キリストも聖霊も御父も、失われた者を探し、悔い改める者を喜ぶ事を、語られた。今回は、羊飼いと見失った羊の譬えを見ていきたい。(ルカ15章1-7節)



譬えの中では当然、主が羊飼いであり、私達がその羊である。(詩篇23篇、100篇)

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原(原意:荒野)に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4)

羊は近視眼で迷子になりやすく、草を食べるのに夢中になって、気がついたらどこかへ行ってしまっていた、という事は良くありがちで、そして、迷い出た羊は、大変危険な状態に陥る。

羊は、臆病で弱い。攻撃する角や牙は無いし、身を守る甲羅も、俊敏な足も無い。

群れにくっついて行動するしかなく、一度群れから離れてしまうと自力で元の所に戻ってくる事はできない。

もし羊を一頭だけを群れから離すと、パニック状態になってしまい、捕まえるのも難しくなるため、「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われているそうである。

主は私達をよく羊にたとえているが、確かに私達は近視眼で、主の御元を離れては好き勝手な方向へ行き、迷子になってはパニックになって、ますます危ない方向へと暴走してしまう事は、ありがちな事だ。



ヨハネ10章を見ると、良き羊飼いなるイエス様と、私達・羊との関係が、詳しく書いてある。(ヨハ10:1-6)

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出して先頭を行き、羊は羊飼いの声を聞き分け、ついて行く。

この時に羊が迷子になるとしたら、先頭を歩く羊飼いに従わない、あるいは、羊飼いの声を聞いても、名前を呼ばれても、ついて行かない場合である。

また、羊の囲いは、石垣の上にイバラを載せ、有刺鉄線のように外部の侵入や脱走を防ぎ、羊飼いはその囲いの中に羊を入れ、羊飼いは入口の所で寝ていた。

だから囲いから迷い出るとしたら、茨の囲いを強行突破するか、門にいる羊飼いを越えて行くしか無い。

私達は時に、イバラの囲いを窮屈に思って強行突破したくなったり、主に先んじたり、時には主を飛び越えて行ってしまうかもしれないが、主の囲いの外は、命がけで守ってくれる羊飼いはおらず、牧草もいのちも見出せない。(ヨハネ10:7-11)

主が私達の牧者である時、私たちは緑の牧場に導かれ、憩いの水辺に連れられ、死の陰の谷も恐れなく導かれ、敵の前で宴を用意され、杯は溢れ、慈しみと恵みが追ってくる事が、約束されている。(詩篇23)



主は、迷い出た一匹を見つけ出すまで捜して下さるが、 99匹を野原(荒野)に残して行かれる。

羊99匹を荒野に残していくのは、危険な気もするが、荒野といえば、悔い改めのバプテスマを受ける所(マタイ3:1-3)であり、悔い改めた人は、「悔い改める必要のない正しい人」(ルカ15:7)なのだ。

あるいは、この話は、自分を義としているパリサイ人達に語っているため、「自分を悔い改める必要の無い義人だと自認するような者は、荒野に放置して、良き羊飼いであるわたしは、失われた羊を探しに行く」と、皮肉も言っているのかもしれない。



この譬えの主人公は、迷子になった哀れな羊ではなく、喜んで下さる主であり、罪人が悔い改めたのなら、天で大きな喜びが沸き起こる事が、譬えの趣旨であ
る。失われた羊を見つけた時、羊飼いは大喜びで、肩にかついで、しかも友達や近所の人達をわざわざ呼んで、と、大げさな気がするかもしれないが、それほど
に、私達・羊を気にかけ、愛し、高らかに喜んで下さるのだ。(ゼパニヤ3:17)

まことの羊飼いなる主、イエス様の名前によって、祝福します!


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2012年01月31日

命じられた通りに(ヨシュア6章)

主の抜き身の剣(ヨシュア5:13-15)


天声教会のメッセージを引用します。
元URL: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=613&cid=3

命じられた通りに(ヨシュア6章)

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主の軍の将から伝授された攻略方法は、この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置しなさい、などではない。

戦士達は皆、町の周りを1度回り、六日同じ事をせよ、そして7人の祭司が7つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、7日目には7度町を回り、角笛を吹き鳴らしなさい、という事だった。(ヨシュア6:2-5)

この情景を想像するなら、非情に奇妙な光景である。

イスラエルの軍勢がわざわざエリコに来たのは、黙って行進をする為ではなかったはずだし、エリコの兵士達も、戦いを想定したために城門を堅く閉ざしているはずである。

それなのに、イスラエルが最初に町を囲んでした事といえば、単に城の周りを黙々と行進し、特別な服を着た祭司達が契約の箱を持って角笛を吹き鳴らしているだけである。



神様の祝福の約束は、はたして本当に成るのか、と、不安になるかもしれない。

しかし、御言葉として言われた事は、頭では理解できなくとも、その通りに為すべきである。

モーセがいなくなった時民は40日待つべきだったし、サウルもサムエルが戻ってくるまで待つべきだった。

主が命じられた事が、たとえ理解できなくても、黙ってその通り行った結果、らい病人は癒され、見えない者の目は開かれ、カナの婚礼の僕たちが汲んだ水は、ぶどう酒へと変えられたのだ。



ヨシュアは民に、定められた時までは言葉を発してはならない、と命じた。(ヨシュア6:10)

民に黙っているように命じたのは、唇で罪を犯させないためであり、誰かが「こんな事何の意味があるのか」と、いらぬ呟きを始めると、それが伝染してゆき、荒野で滅んだ民と同じ道を辿ってしまうからだ。

もし、神様の命じられる事を、人の常識に照らすなら、あれこれとつぶやきたいかもしない。

しかし私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、そういう思いがあったとしても、唇という境界線を越えず、淡々と命じられた通り行う事は、大事である。



雄羊の角笛とは、神の小羊キリストの栄光を賛美する道具であり、また、警告を与える道具である。

もし私達が、神のみわざを行いたいのであれば、また、神の祝福に入りたいのであれば、まず、私達の唇は閉じ、自分の思いは脇に置き、神様が命じられた賛美と警告だけを、発し続けるのみである。

それも、1日だけでなく2日、3日も同じように、そして、定められた時までそれを実行するのである。

人々の目から見れば、こんな事でいいのだろうか、もう何も起きず5日経った、6日も経ったじゃないか、と、言いたくなるかもしれないし、敵も、なんだ、あいつらはただラッパを吹いて行進するだけで、何もしないじゃないか、と、侮るかもしれない。



勝利を目前としている時、神様から命じられたけれどもその意味が分からず、先行きの見えない現実と、している事の意味を見出せない淡々さが、嫌になるかも
しれないが、神様が命じられた事は、「6日間それをせよ、そして7日目には7度それをし、祭司達は角笛を吹き鳴らせ」であって、それ以上でも以下でもな
い。

は命じられた通り、7日目だけは7度回った。すなわち、最後の日には、賛美と警告を、7度、行った。

この時、エリコの住人が代々建て、頼りとして来た城壁は、あっさり崩れ、町はあっさり陥落した。

皆さんの目の前に、城壁は立っているだろうか?信仰を持って従い通すなら、その城壁は崩れ落ちるのだ。



世の終りの時にも、ヨシュア記6章に似た事が起こる。

7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人々が代々築き上げてきた全ての営みも、世の国々全ても、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)

この終わりの時代、警告のラッパが吹き鳴らされる頻度が、特に頻繁になって来ている。

私達の口には、主に対するつぶやきは登らせず、信仰をもって御言葉の通り淡々と為し、世に対しては賛美と警告を発し続け、大いなる勝利と分捕りをする、そのような皆さんでありますように!

イエス様の名前によって祝福します!


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2012年01月30日

主の抜き身の剣(ヨシュア5:13-15)

天声教会のメッセージを引用します。
元URL: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=603&cid=3

「主の抜き身の剣(ヨシュア5:13-15)」

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ヨシュア達には、これから勝利と大きな祝福が約束されているけれども、今、彼らの目の前にそびえ立っているのは、どう攻略して良いか見当もつかない城壁と、硬く閉ざされた城門である。

ヨシュアはそれに向かい、どのようにすれば良いか、まだ何の考えもなかった時、ふと目を上げて見ると、前方に、抜き身の剣を手にした一人の男が、こちらに向かって立っていた。

ヨシュアは問いかけた。「あなたは味方か、それとも敵か?」。すると彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」

ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍は応えた。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」



巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなり、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、主の軍の将さえ自分の損得の秤にかけてしまう事もある。

しかし、主は人の自分主体の質問には「いや」と応える。そして、ご自分の聖なる立場をお示しになる。

それが示された時、ヨシュアは、実に正しい態度を取った。

まず地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って主従関係を明確にし、「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ主の前に聞く立場、命じられる立場である事を告白した。



すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。

私達は世の様々なほこりや汚れを踏んで来たため、私達の履物には、そうした穢れがついている。

自分にとって敵か味方かという概念を捨て、主をただ聖なるお方として拝し、そして、世のしがらみや汚れという履物を脱ぎ捨て、世から受けた穢れを主の御前
に持ち込まないなら、主は私達を聖なる所へと誘い、置かれている祝福を勝ち取る方法を、そして、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を、教えてくださる
のである。「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」(詩篇73:17)



みことばの剣は、世と神の国の間を切り分け、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。

主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うにはあまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)

しかし、だからこそ人間的な力(肉)に頼るか、それとも御言葉に頼るかが試されているのである。

そしてヨシュア達は、御言葉の通り忠実に実行し、大勝利を収めた。

主の剣は、バプテスマを経て主の死に継ぎ合わされた人達にとっては、勝利の剣であり、御言葉に従う事はすなわち勝利の法則に従う事である。



しかし、主を軽んじ、自分の肉欲や目に見える所を頼みとする者には、災いの剣となる。

かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主の御心は「行ってはならない」だったのに、それでも不義の報酬を愛し、行こうとしたところ、御使いが抜き身の剣を持って彼を殺そうと待ち構えた。

しかし、ろばが人間の声でものを言い、彼の気違いざたをはばんだ。(2ペテロ2:15-16、民数記22章)

また、ダビデが王国の人口や兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と言う制止にもかかわらず、強引に数えた所、災いが下され、7万人が疫病に倒れた。

この時も、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べていた。(1歴代21:16)

このように、主の御声があるにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数えたりすると、主の剣は、災いとなって差し伸べられてしまうのである。

バラムはイスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた(黙示2:14)結果、剣で倒され(ヨシュア13:22)、ダビデはすぐに悔い改めた結果、御使いが剣を持って立った場所は神殿となった。

今立っている地をわきまえ、自己中心的な判断を捨て、主を聖なるお方とする皆さんでありますように!


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2012年01月29日

祭司の担ぐ契約の箱を目指して(ヨシュア3章)

天声教会のメッセージを引用します。
元URL: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=583&cid=3

礼拝説教メッセージ音声:祭司の担ぐ契約の箱を目指して(ヨシュア3章)

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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存


ヨシュア達が約束の地に入って行く過程から私達が学ぶ事は、信仰によって自己を降ろす事である。

「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマ
の距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」(ヨシュア
3:4)



今まで一度も通った事の無い道を進む際、慣れ親しんだ経験に頼れず、一歩一歩が信仰の歩みとなる。

それまで昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導いてたが、もはやそれらの導きではなく、ただ祭司たちが担ぐ契約の箱が、先だって進んで行くのを目印にして、歩んでいく事になる。

この契約の箱とは、神様の契約のしるしであり、中に入っているのは、御言葉である。

現代、私達が導かれていくべき目印となるのは、火や雲といったしるしではなく、御言葉であり、イエス様を通して与えられた新しい契約は今、私達の心の板に書き記されている。(エレミヤ31:33)

信仰の歩みとは、信仰の創始者また完成者なるイエスから目を離さないで、このお方が先立って進む道を、私達もついて行く事である。

主が「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通り、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) と約束しておられるのだから、恐れず、どこにでも足を踏み入れて行けば良いのだ。



そこでまず手始めに足を踏み入れるべき所は、ヨルダン川である。

その時期は過越祭直前の3〜4月、大麦が熟する時期の「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれ」(15節)、ヘルモン山からの雪解け水で、一年の中で水かさが最も増す時期だ。

そんな冷たい水が溢れている川に入って行くのは危険極まりない、というのが人の考えだ。

しかし、主は「入れ」と言う。ここに信仰が試される。

別に敵が追ってくる訳でもないし、ヨルダン川のこちら側にも、そこそこの良い土地があるのに、なぜ、危険を冒してまで、私たちは向こう岸へ行かなくてはならないのだろうか?

神様に召しだされた民には、神様が「行け」と言われた時、二つの道以外には無い。

すなわち、祝福か、呪いか。行って祝福を勝ち取るか、それとも留まって荒野をさ迷った末に屍を晒すか。

信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在は無い。

手を伸ばせばおいしいごちそうをいくらでも食べられるのに、億劫がって空腹のまま眺めているような者だ。



祭司が進んだのは、目の前の川の流れがせき止められたからではなく、川がまだたっぷりと水を湛えて流れている時だ。しかし、祭司達が足を進めて行き、足が水に浸ると、川は堰き止められたのだ。

私達は様々な見込みを計算するが、御言葉の裏付けがあるなら、信じて進むのみである。

そうすれば、主が川を堰き止め、障害の山は、主が海に移して下さるのである。

信仰とは、川に何万個の土嚢を投げ込む事でも、山と海との間をスコップ持って何万往復するのでもない。

からし種ほどの信仰があれば、それを握って進むだけ。あとは主が為して下さるのだ。



私もこの教会で牧会をする直前、水を湛えたヨルダン川を、一歩一歩進んでいるような感覚だった。

すぐ足元は流れの強い水を湛えた川で、それでも勇気を絞って一歩踏み出し、足を降ろした。

足を降ろした場所は乾いて安全で、流れに足を取られたり溺れる事は無かった。その繰り返し。

底の見えない深淵の向こうに足を踏み出すかのような恐怖を覚えた事もあったが、それでも守られる事を信じて一歩踏み出す都度、そこは安全で、進めば進むほど祝福が増し加わった。

結局私は、御言葉が途切れる事無く奉仕は守られ、野たれ死ぬ事無く必要も満たされ、今に至っている。

ヨルダン渡河は、イスラエルの民が何十年前のあの時出来なかった、信仰のリベンジをするチャンスだ。

皆さんが主からの召しにより、信仰によって進む道は、これまで一度も通ったことのない道かもしれない。

しかし、進むうちに、行くべき道は主が示してくださる。

今、信仰を持って一歩を踏み出し、ヨルダンを渡る皆さんでありますように!


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2012年01月24日

女のかぶりものについて(1コリント11:1-16)


引用元URL: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=689

礼拝説教メッセージ音声:女のかぶりものについて(1コリント11:1-16):右クリックで保存

韓国語通訳有


今日の箇所では、パウロは、女は祈りや預言をする時は、頭にかぶりものをするように、男はしないように、と指示しております。

パウロは律法を知り尽くしているはずですが、旧約律法の中には、礼拝中のかぶりものについては特に指示はありません。

パウロはなぜ、コリントの人達に、かぶりものの指示をしたのでしょうか。

それは、当時のその場所の習慣を知らなくては、理解しづらい事です。



当時の習慣として、女性は通常外を歩く時、かぶりものをして髪を隠しておりましたが、遊女はそれをせず、誇らしげに自分の髪をあらわにして「女」をアピールをしておりました。

現在でも、女性は、露出する事がより前衛的、よりかっこいい、という価値観の元に、足や素肌を露出している女性もおりますが、それと同じように、当時のコリントでも、かぶりものをかぶらないことが、前衛的で進んでいるような風潮があったのかもしれません。



しかし「コリント風」という言葉が性的不品行の代名詞にまでなったコリントという町の中の、祈りや預言をする教会という場で、女性が遊女のようにかぶりものを脱ぎ、「女」という事を全面に押し出したり自分をアピールするのは、当然、問題のある事でしょう。



女性に限らず男性でも、あがむべきお方であり礼拝の中心である方・イエス様を差し置いて、「自分の誇らしげな何か」を誇示し、主よりも注目を集めようとするのは、栄光泥棒です。

「自分の誇らしげな何か」とは、歌声や楽器奏楽テクニックかもしれませんし、朗々と出てくる祈り言葉かもしれませんし、雄弁な説得力や財力かもしれません。

それらの存在そのものは良いかもしれませんが、もしそれらが、神様から注目を奪い、人間に注目させる「栄光泥棒」となるなら、それは問題です。



現代の日本では、女性が帽子をかぶる・かぶらない事に、あまり意味はありませんが、例えば礼拝中に足など肌を露出する格好をし、人々の注目を神様から奪って、いらぬ情欲を起こさせるのは、あってはならない事です。



神は無秩序な神ではなく秩序の神であり、私達には従うべき権威の順番があります。

「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。」(3節)

パウロは女性を卑しめているわけではありません。

ただ、創造の御業には順番があり、その順番に従って権威に服従し、秩序正しく礼拝を行いなさい、と言っているのです。



さて、10節を見ますと、「だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。」とあります。

礼拝という場においては聖なる天使たちも参加しております。

天使が礼拝をする様を見てみましょう。イザヤ書の6章1節から4節です。



セラフィム(天使)は、二つの翼で顔を覆っておりました。

それは、権威は自分にではなく神にあるということを、表しております。

また、二つの翼で足を覆っていました。

それは、自らを隠す慎み深さを表すためです。

御使いがそのようにして、聖なるかな、と賛美したとき、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされました。

この御使い達のように、自らの栄光を隠して、自らの美しさを隠して、神を賛美するなら、神の栄光は、大いに満ち満ちて行きます。



天使は神の栄光を表す、神を助ける美しい使いで、女も、男の栄光を表す者として美しく創られました。

天使は、自らの美しさに驕り高ぶって、神のようになろうとしたら、投げ落とされ、サタンとなりました。(エゼキエル28:17)

ですから、女もおごり高ぶって、男に先んじようとするなら、それはサタンの道であり、また男もキリストに先んじようとするなら、それはサタンの道です。



11節、12節「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」

男性と女性、どちらが優れ、どちらが劣っているか、という議論は、ナンセンスです。

主にあって、女は男を離れてあるべきではないし、男も、女を離れてあるべきではないからです。

全ては神から出ていると書いてあるとおり、男も女も、それぞれ創られた領分を守り、創造の秩序に従って、神に栄光を捧げるのみです。



正しい秩序のうちに礼拝を行い、神にのみ栄光を捧げる皆さんでありますように。

イエス様の御名前によって祝福します。アーメン。

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2011年10月07日

強くあれ雄々しくあれ(ヨシュア1:1-9)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=571&cid=3

礼拝説教メッセージ音声:強くあれ雄々しくあれ(ヨシュア1:1-9)

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ヨシュアと言えば「強く雄々しく」だが、主が3度も仰せられているので彼には恐れがあったのかもしれない。

彼はモーセの従者として40年、彼の傍で生きてきたため、彼の偉大さも、民の頑なさも十分承知している。

そのモーセが死に、これからは自分が直接神様から示しを頂きつつ、そしてこの60万以上の民を直接導いていかなくてはならないのだから、どれほどのプレッシャーだっただろう。

そんな彼が、雄々しくなれる裏づけの言葉が、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)である。



私達にも、強く雄々しくなれる裏づけの言葉がある。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命
じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ
28:18-20)

私達の主、イエス様に与えられている一切の権威とは文字通り、一切の権威であり、その強さは、会社の上司や家主、総理大臣どころではなく、全宇宙の諸元素一粒一粒に至るまで支配しておられる権威だ。

その主イエス様が私達に命じられている事は、あらゆる国の人々の所に行って弟子とする事、そして、イエス様の御言葉を守り行うよう彼らに教える事で、ヨシュアに言われている事と同じである。

主に命じられた通り、人々を弟子としバプテスマを授け、御言葉を守るよう教えるなら、万軍の主が私達の味方となられ、終りの時代の最終章に至るまで、いつもともにおられるのだ。どうして恐れる事があるだろう。



「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) ここで神の民が為すべき
は、そう信じてその土地に実際に足を踏み入れて行き「ここは私達のもの!」と、所有権を主張すれば良いだけ。神様はそこまで、全てをお膳立てしておられた
のだ。

それなのに人々は40年前「あそこには強い人たちがいるから」「私達は弱いから」と言って実行しなかった。

私達はそうあってはならない。

キリストは十字架上で、病や呪い、貧しさをその身に負い、処罰し、死を滅ぼして勝利して下さった。

私達に不利な債務証書は十字架に釘づけられ、無効にされ、キリストにあって全ての支配と権威の武装は解除し晒し物とされた(コロサイ2)。私達はどんな事の中にあっても圧倒的な勝利者だ。(ローマ8:37)

万軍の主が全てにおいて勝利し、お膳立てして下さったのに、私達はどうしてそれを疎かにできるだろう。

ただ主が勝利して下さった勝利を信じて出て行き「ここは私達のもの!」と宣言して戦利品を分捕るのみだ。



モーセからヨシュアへの引継ぎ内容は、実は少なく、主から与えられた律法を守り行う事、これに尽きる。

私達も勝利を得るためにする事も多くはないし忙しくなる必要も無い。むしろ必要な事は、ただ一つである。

マルタは、イエス様が御言葉を話しておられるのに、しもべ達に指示して忙しくさせ、そのうちイエス様にさえ指示を出し、イエス様の足元でじっと座って御言葉に聞き入っていたマリヤさえ糾弾した。

そんなマルタに主が言われたのは、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)である。

私達が居るべきはイエス様の足元であり、取るべき行動は、御言葉に耳を傾ける事、ただそれだけである。



「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」(ヨシュア1:8)

ヨシュア達の世代が目にしたのは、神様の法則を離れて好き勝手にするなら、必ず滅びる、という厳然たる事実だった。私達が繁栄し栄える根拠は何か?それ
は、御言葉を口ずさみ、守り行う事。これに尽きる。神様が示してくださった法則、イエス様の勝利の行列から離れず、多くを分捕る皆さんでありますように!


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2011年07月31日

約束の地に入れる者 (民数記13章)


礼拝説教メッセージ音声:約束の地に入れる者 (民数記13章)

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主が私達に用意して下さった約束の良き相続地を、私達が得るための法則は実はシンプルだが、そのシンプルな事を人はいかにややこしく難しく考えてしまうか。

出エジプトの民が約束の地に入れず荒野で40年さ迷う事が決定的となってしまった事件から見てみたい。



「見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記1:21)

この言葉の通りそのまま攻め上っていれば、神様が約束された良き地をすぐにでも自分のものとしたはずだったが、民は余計な要望をしてしまい(22節)まず斥候を遣わして探らせて欲しいと、モーセに進言した。

モーセにとってその進言は良いと見えた(23節)し、ヨシュアやカレブも行き巡って見た時、こんなにすばらしく良い土地が与えられるのかと心躍ったが、荒野で屍を晒す事になる民には、そうではなかった。

彼らは立ちはだかっている城壁や強そうな先住民、それに比べた自分自身を見たのだ。(民数記13:31)

「そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」(民数記13:33新共同訳)



荒野で屍を晒してしまう第一の兆候として、まず、立ちはだかっているものを、過大に大きく見る事だ。

ネフィリムとは大昔の名高い英雄たち(創世記6:4)だが、御言葉によると、ノアの洪水で全滅した筈である。

全滅したはずのネフィリムを何故見たというのか? それは彼らの見たアナク人という背の高い現住民を勝手にネフィリム人とし、民も御言葉や約束ではなく彼らの恐怖の産物「脳内ネフィリム」に伝染されたからだ。

荒野で屍を晒してしまう二つ目の兆候として、自分を「いなご」のように卑しく見積もる事だ。

自分達は神がことさらに目を留め多くの奇跡によって救い出した民、地を相続するという約束が与えられたアブラハムの子孫であるにもかかわらず、自らを「いなご」と呼んでいる。

キリストのいのちの代価がつけられた私達をそのように卑下する事は罪である。

私達も信仰によるアブラハムの子孫として、約束されたあらゆる良き祝福を信仰をもって受けるべきである。



恐怖や不信仰、御言葉と違う事の流布といった「死」がはびこる時、いのちで飲み込まなくてはならない。

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)とは兄弟愛をもって心から互いに愛し合う勧めであって、不信仰な者と共に信仰を捨てる事でも、臆病者と共に臆病になる事でもない。

不信仰や臆病には決して同調してはならず、カレブのように信仰を表明するのである。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30)

カレブは信仰にしっかりと結び付けられていたから、実にあっさり約束の地を勝ち取った。(ヨシ14:12-15)



ヨシュアやカレブのように不屈で強い信仰が無くても、約束の地に入る方法はある。

それは、彼らのように信仰に結ばれた者に、何も言わずについて行く事である。

モーセの後の指導者、ヨシュアについて行った者達の中にも、もしかしたら恐れた者もいたかもしれない。

それでも不平を言わず、進言もせず、ただヨシュアの言う通りに為し、ついて行っただけで約束の地を得た。



モーセはヨシュアを斥候に遣わす時、ホセアという名だったのをヨシュアとした。(民数記13:16)

ホセアの名の意味は「救い」で、ヨシュア(イエシュア:イエス)の名の意味は「主は彼の救い」である。

モーセが約束の地カナンを探らせるにあたってそのように名を変えさせたのは、「救い」を得る源は主である事を教えるためであり、現代の私達にも、まことの
イエシュア、すなわち信仰の創始者また完成者であるイエスに聞き従い、彼について行くようにと勧めるためだったのではなかろうか。

約束の地に入れる者と入れない者の違いは、救いを主に置くか、それとも自分に置くかである。

その法則を知って、救いを自分には置く事を止め、神に置き、恐れずに前進する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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昨日は私の家に来る家族の引越しを、聖徒達と一緒に手伝いました。

引越しが始まった途端雨が止み、終わる時の最後の祈りで、全工程が守られ雨からも守られて感謝します、と祈った途端に、土砂降りの雨の音がしたので、祈りの最中に聖徒達皆と笑いました。

これから平和で尊厳に満ちた生活ができますようにと祈っています。


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2011年07月10日

何にも勝る主へのいけにえ(1サムエル15章)

天声教会では、人の祭りは終わりにし、純粋な主の祭りが行われるように、と日々祈り整えている。

今回、サウル王の失敗(1サムエル15章)から、人が犯しやすい間違いと、主は何を第一に求めておられるのかを見て行きたい。


アマレクに属するものは一切滅ぼし尽くせ(1サムエル15:3)という命令は、とても厳しいように見えるが、主は最善を知り、未来をも見通されるお方である。

アマレク人を生かすか生かさないかは、将来のイスラエル存亡に関わる重要問題だったため、主はその命令を与えられたのだが、サウルと彼の民はそれに従わず、王アガグと、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで聖絶するのを好まず、ただつまらない値打ちのないものだけを聖絶した。(15:9)

良い物まで滅ぼすのは惜しい、主は厳しすぎる、少しは取って置いてもいいのでは、と言って、最善なる主の言葉に自分の思いを混ぜてしまうと、最善は最悪に取って替わり、災いが起こる。

事実、その事が災いとなり、アマレク人は、後にダビデと部下達全ての財産と妻を奪い、サウル王にとどめを刺し、ずっと後のエステルの時代には、アガグの子孫ハマンがイスラエル民族を皆殺しにしそうになった。

主の命令は時に厳しく見えたり、人の目に違うように見える事もあるが、サウルのように自分の判断を優先させると、後にその判断が仇となって滅びを招き、主が正しいお方だったと後悔しながら思い知るのである。


サウルは主のあわれみによって勝利したにもかかわらず、さっさと自分の記念碑を立て(12節)、自分の手柄にしたが、悪い結果は人のせいにする性質がある。(21節)

それはアダムと同じ性質で、罪を認めなかったり責任転換するなら、主との正常な関わりは持てない。

『サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」』(15:13)

一見キレイな言葉だが、主の言葉を守っていないのに守りましたと言い、主の悲しみがあるのに主の祝福がありますように、と言って、偽りのキレイな飾り言葉を多くする所に、主の嫌われる罪が潜んでいる。


サウルは、主への供え物にするために最上の物を取って置いた、と言っているが、本当にそうだろうか?

『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』(15:22,23)

もし彼が本当に主を愛していたなら、主が言われた通り、最も良い物は、真っ先に滅ぼしたはずである。

主を礼拝するとは、自分にとって最も大切な物、最も良い物を捧げてでも、御言葉に従う事である。

アブラハムは主の命令通り、ひとり子イサクをささげようとしたため大いなる祝福を勝ち取ったし、アベルは羊の最良のものを神にささげたため、その捧げ物に目を留められた。

私達の最も大切な物を明け渡して礼拝する時、主は満足され、捧げた物の何倍にも勝る祝福を得るのだ。


『サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」』(15:30)

彼は王国が自分から取り上げられたと宣告され、その事の赦しを願うよりも、なんと、この期に及んで民と長老の前で面目を保つ事を願っている!ここまで来るとどうしようもなく、サムエルも彼と2度と会わなかった。

もし神に喜ばれない事を示されたなら、私達が取るべきはダビデのように正直に認める態度である。

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」詩51:19

主の前に砕かれた心でいるなら、主はその者の罪を赦し、ささげ物を受け入れてくださる。


人の目を気にする以前に、また、人をどうこうして支配する以前に、真に主に喜ばれているかどうか、心を吟味し、常に「聞き従う」という、どんないけにえにも勝るいけにえを捧げ続ける皆さんでありますように。

イエス様の名前によって祝福します!

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― 編集後記 ―

今日の礼拝はとても賑やかで、初めての方々、3ヶ月ぶりの方、半年ぶりの方々が来られました。

なんで今日に集中して??と思ったのですが、きっと主が何かをなさろうとしておられるのでしょう。

今日来られた方々がさらに多くの恵みを頂けますように祝福します。

さて、昨日もアナウンスしましたが、本日10日から13日水曜午前中まで出張しますので、その間のメッセージ配信はお休みさせていただきます。

今度の出張はまず静岡に行き、それから名古屋まで行って船でどこかの島に行くそうです。

詳細は分かりませんが、その島には教会が無く、福音を聞いてイエス様を信じたいという方がおられるそうです。

もしかしたらバプテスマを受けるかもしれません。

主がどう導かれるのか分かりませんが、楽しみにして望みます。
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2011年06月26日

キリストの祭りと人の祭り(出エジプト20:23-25)

1、神の定めた掟

「あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。

あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。

しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。」(出エジプト20:23-25)

出エジプト20章は有名な十戒授与の場面で、この命令は、火と密雲が立ち込めるシナイ山の麓で、大地は震え、雷鳴と角笛の音が高く鳴り響くという、モーセさえ恐れて震える程恐ろしい状況の中で与えられた。

エジプトを出たイスラエル民族に、神が幾度も偶像を作ってはならないと幾度も命じたのは、神は見えないお方である故、人は神から目をそむけ、目に見える偶像や指導者のほうを頼りやすいからである。

私達が神に捧げるべき礼拝は、土、あるいは、ノミを当てない(汚されていない)石の祭壇の上で、まことの犠牲となられたイエスキリストのみを捧げるべきである。


2、人の祭り(出エジプト32:1-6)


ころがイスラエルの民は、指導者モーセが40日姿を見せなくなると、金の子牛という偶像の神を造って早くも逆らい、各自身につけていた飾りの品々を寄せ集
め、ノミで型を作り、若い雄牛の鋳像を造り「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。(出エジプト32章)

そして焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。

鋳像とは、鋳型にノミを当てて好き勝手な形を造り、そこに溶かした金属を流し込んで作る像である。

人の祭りは、人手による「型」にノミを当て、各自が身につけていた飾りを集約して流し込み、そうして作った好き勝手な「理想像」にいけにえを捧げ、その前にで飲み食いしたり戯れたりするのである。

主の大いなる御技の数々を経験し、主の臨在の雲と火の柱の前にあっても、自分の欲に従って動きたい者は、まことの神を押しのけ、節操無く好き勝手な神を作り出し、好き勝手な礼拝を生み出すものである。

こうした人の力による「理想像」は、古くはバベルの塔であり、神無しでやっていくための文明の利器である。

牛は畑の力であり(箴言14:4)、物を運んだり食肉にしたり、便利で有用な財産である。

そして人が神に捧げるべきものであるが、決して人間が神にしてあがめるものではない。

人にとって有用な牛や、文明の利器、あるいは指導者を偶像化し神格化し、まことの神以外を神とする行為こそ、最も忌み嫌われる罪であり、親子3代4代にも呪いを招く行為である。(十戒第1,2戒)


3、私達の勤め

モーセは民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。(32:25)

民が乱れかける最初の時、アロンはほうっておいたため節操無く乱れて行き、敵の物笑いとなった。

「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(詩篇106:23)

本来神は偶像礼拝を忌み嫌われ、民はこの時全員殺されて然るべきだったが、それでも生き残れたのは、モーセが執り成したからに他ならない。

私達も破れを担って神と人との間に立ってとりなさなくてはならない。

また、我々のエクレシアにおいて「人の祭り」が兆候を見せた時、速やかにその芽を摘み取らなくてはならない。

我々はキリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたため、混じりけの無い純粋なパンであり(1コリント5:6-8)そしてそれは、わずかのパン種によって容易に汚されてしまう。

人間の祭りの原因となる人の欲望や、人の手による業というパン種をきれいに取り除き、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭を祝うみなさんでありますように。

イエス様の名前によって祝福します!

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─ 編集後記 ─

かつてオカルトの儀式に関わっていた方と話しましたが、イエス様を信じた後も恐れに付きまとわれているようでした。

イエス様を信じた者は、以前の事柄に対してはもう死に、キリストと共に既に勝利した事を話しているのですが、恐れに長く取り付かれていると「勝利した」という概念が中々実感できないようです。

人は何を信じて生活しているかによって、人生の色合いがかなり違ってしまうのだなあと思いました。
posted by リチャード at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月30日

霊的不毛地帯(使徒17:22-34)

アテネの町では、パウロに積極的に「語ってほしい」と頼んで来た。

そういうケースは珍しく、伝道者には一見嬉しい事のように見えるが、何でもかんでも受け入れるアテネのような所こそ、実は要注意である。


アテネ人のように、死の危険が少なく、生活の雑事から解放されて、時間的ゆとりもあると、面白おかしい物事は無いかと探し回り、偶像や哲学、福音さえも「自分に気に入るか入らないか」という身勝手な判断によって取捨選択する。

そのような所は日本のように、福音を受け入れない霊的不毛地帯となりやすい。

彼らは福音さえも「何か新奇なこと」の一つとし、パウロをコメディアンのように新規なネタを提供してくれる者とし、イエス様を「異国の心霊(ダイモニア)」の一つにしてしまう。

日本も色々な神々が祀られ、テレビをつければ日々目新しい事や、面白おかしい事に満ちており、イエス様さえもコメディアンの一つのようにしてしまった。


パウロはアレオパゴスという有力者達の評議会に連れて行かれ、話す機会が得られ、アテネの人達にも分かりやすいようにメッセージを展開した。

有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、だから偶像崇拝は意味が無い。。。

そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。


死者のよみがえりの話になった途端、人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言いつつ2度と聞こうとしなかったからだ。

他のほとんどの伝道地では、迫害に遭ったりユダヤ人が騒ぎを起こして出て行かざるを得なかったものだが、ここでは何の迫害も反対も無く自由に伝道出来たのに、パウロ自ら去って行った。そういうケースも珍しい。


もし死者の復活が無ければどうか?

古今東西のクリスチャン達は、自分たちの師を見捨てた卑怯な12弟子たちによるでっちあげ話を信じているわけである。

しかしあいにく、イエス様と出会った者はいっぱいいるし、イエスの名によって悪霊は追い出され病も癒されたケースは数多く、イエスにあって眠った聖徒達の顔は、実に聖なる安らかさがある。

いのちの主であるイエス様は、私達の初穂として蘇られた。そのしるしとして、イエスの名によって多くの良きわざが為されているのを、私達は見ている。


そういうわけで、復活こそ救いの根幹であり(1コリント15:12〜19)それを認めないアテネ人も、復活を信じない「クリスチャン」も霊的には致命傷で、
パウロもイエス様も、そういう者からは何も言わずに去っていくのである。

罪と死によって支配されている呪いの生活に対しては十字架の死に明け渡し、イエス様と共に復活し、新しい永遠のいのちという祝福に満ちた人生を歩む皆さんでありますように。

イエスの名前によって祝福します!

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― 編集後記 ―

AKB48がミスチルを抜き、歴代シングル初動ランキング1位になってしまいましたね。

現代日本は、実にアテネに似ていると思います。

ギリシア神話の神々は、現代日本で言う所のアニメキャラ、ゲームキャラみたいなもので、当時の熱狂的オタクたちが、大きなキャラの像を作り、フィギュアを流行らせ、町や丘にキャラの名前をつけたようなものです。

アイドルの原語はイデア、偶像です。はまり過ぎませんように。。。
posted by リチャード at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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