2012年09月23日

サウロからパウロへ(使徒26:9-18)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1113

サウロからパウロへ(使徒26:9-18)
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大宣教者として有名なパウロ(ユダヤ名:サウロ)は、タルソス出身の生まれながらのローマ市民で、ガマリエルの下で高等教育を受けた生粋のパリサイ人であり、血筋も育ちも能力も、全く申し分ない者だった。

当時パリサイ派の中では、ナザレのイエスは、メシヤを自称し、神を冒涜する者だとの見方が強く、ナザレ派(キリスト教)は異端の新興宗教であった。サウロ
はどういうわけか、執拗と思えるくらいキリスト者への迫害に熱心で、「迫害者サウロ」として恐れらた。彼はなぜ、そのようになってしまったのだろう。



サウロはその育ちの故に、律法への熱心については、周りの人と比較するなら完璧な自信とプライドを持っていたが、同時に、律法の聖なる境地には決して辿りつけない惨めな自分に矛盾を抱いていた。

そんな彼が、キリスト者であるステパノの処刑に立ち会った時、かなりの衝撃を受けた。(使徒7:54-60)

サウロの仲間達が暴言を叫びながらステパノに殺到し、ステパノは多くの手で掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投
げつけられているのに、彼は棄教したり命乞いしたり罵り返したりせず、御使いのような趣で、聖なる平安に満たされ、しかも、殺そうとしている自分達のため
に神に執り成して祈ったのだ。

なぜか?それは彼は、神の右に立っておられるキリストを見たからである。

キリストの品性は聖であり、平安であり、ののしられてもののしり返さず、最後までひたすら執り成し、赦す。

そのキリストを見つめ、キリストに浸された者なら、キリストのご性質がどんな時でも噴出してしまうのである。



サウロは相当ショックだったのではなかろうか。一生懸命清く正しく生きて来たはずなのに、決して到達出来なかった聖なる趣、義なる性質を、自分より遥かに劣ったこの新興の異端集団が、自然に体現している。

そんなハズは無い、絶対どこかでボロを出すはずだ、と、ますますキリスト者の家々を強襲し、男も女も牢にぶち込んで行くものの、彼が暴いていく家々、ぶち込んで行く人達は、あまりにしとやかで善良だった。

彼は自分を保つため、自己正当化するために、ますますキリスト者を捕らえ、殺害しようと意気込み、ダマスコにまで行こうとした時、天からのまばゆい光が彼
を包み、声がした。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」(使徒26:14)

彼が「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、応えがあった。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」 つまり、イエスを主とする兄弟姉妹を迫害する事は、イコール、イエスご自身を迫害する事である。



イエスは神の敵だと思っていたのに、太陽よりも輝く聖なる光、暖かい光に照らされ、サウロは「主よ」と言う以外に無かった。そして主は、実は彼が「とげのついた棒を蹴る」ように痛かった事を、知っていた。

サウロは思ったろう。「なぜ私を知っているのですか?」「彼らを捕らえた時、彼らを牢に引きずる時、死刑に定めた時、実はとても痛かった事を、なぜあなたは知っておられたのですか?」と。

サウロはどれほどショックだっただろうか。自分はそれまで神に熱心に仕え、神に喜ばれる事をしてきたと思っていたのに、実はその逆をしており、神の反逆者と思っていたイエスこそ、実はメシヤだったのだ。

彼はそれまで生きてきた人生、信じてきたアイデンティティが、ことごとく覆されたが、その経験こそ、十字架の死の経験である。私達キリスト者の歩みは、必ず、十字架の死と復活から始まらなければならない。



サウロは目からうろこが落ち、方向転換し、宣教者パウロとして神に用いられる器として生まれ変わり、かつての同窓生や友人に、裏切り者呼ばわりされる事を恐れず、主に示された通り、宣教者として歩み始めた。

そうして走るべき道のりを走り切り、その道のりを終えた時、栄光の冠を堂々と受けるべく、殉教した。

彼が命を終える時、ステパノのように、天が彼に向かって開かれ、栄光の御座におられる主を、見上げる事は出来ただろうか?当然である。それはイエスを主として走る者達全てに与えられている栄光である。

あなたは自分が望む所に従って生きる者・サウロのまま終わるだろうか。それともキリスト者として改心し、自己に対しては小さき者、主にとっては偉大な働き人、パウロとして終わるだろうか。主はこう言われる。

「さあ起きあがって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事とあなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務にあなたを任じるためである。」(使徒26:16)


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2012年09月10日

良くなったら、どうするか?(ルカ17:11-19)

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良くなったら、どうするか?(ルカ17:11-19)

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イエス様がエルサレムに向かう途上のある村で、10人のらい病人が遠くに立ち、イエス様に叫んだ。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」(ルカ17:13)

この病に罹ると、神経は麻痺し痛みや熱さなど感じないため、怪我しても正常な対応ができない事が多い。

らい病は律法では汚れているとされ、出歩ける所も制限され、家族にも会えず、隔離されて生きるしか無い。

当時は治療法の無い病として恐れられていたが、私達も霊的に、この病に罹っているようなものである。

私達は、罪という癒しようの無い病によって汚れ、霊の感覚が麻痺しているため、嘘をついたり、人を傷つけたりして、自分自身をどんどん罪のとげで刺しても、全く気付かず、やがて死に至ってしまう。

彼らはイスラエルの民から隔離されなくてはならなかったように、私達も、以前は救いから遠く離れ、空中に権威を持つ支配者・サタンに縛られ、肉欲の望むままを行い、滅びるべき者達だった。(エペソ2:1-8)

しかし、憐れみ豊かな神は、私達を愛して下さったその大きな愛の故に、罪の中に死んでいた私達をキリストと共に生かし、共に天の所に座らせて下さる恵みの道、救いの道を、私達に与えて下さった。

らい病人達がイエス様に「あわれんでください」と遠くから叫んだように、救いから遠い私達もイエス様に「あわれんでください」と叫ぶなら、救いの道は開かれるのだ。それはイスラエル人も異邦人にも、違いは無い。



イエス様は、彼らに手を置いて祈るなどはせず「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。

祭司の所に行って体を見せるのは、本来体が治癒を見せてからだが、まだ兆候も無いのに、そう指示した。

もし祭司から「きよめられた」という宣言が出たら、らい病人としての隔離生活は終わり、家族の元に戻ってイスラエルの民としての生活が出来、それまでしたくても出来なかったあの事この事も出来るようになる。

彼らはまだ癒しの兆候も無い内にイエス様の言葉を信じ、言われた通り実行したら、その最中に癒された。

しかし、自分を癒して下さったお方の所へ引き返し、感謝をささげたのは、たった一人だけだった。

主は「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言われ、悲しまれた。(ルカ17:17-18)

神を知らぬ人でも、大抵祈る。私を幸いにして下さい、病を癒して下さい、富ませて下さい、と。

しかし、自分が癒された後、富んだ後、自分をそのように幸いにして下さったお方に、何を感謝し、そのお方とどのように関わって生きて行くのか、という事が、すっぽりと抜けている人の何と多い事だろう。

癒された9人は、イエス様の所へ戻って神をほめたたえる事なく、祭司の所で清められた事のお墨付きをもらったら、それぞれ自分の好きな所へ行き、やりたかったあの事この事をしに、さっさと出かけてしまった。

主は、願い事を何でも叶えてくれる都合の良い四次元ポケットではないし、祈りは、癒しや富、幸いを引き出すためのキャッシュカードでもない。主は人格ある御方であり、祈りはその御方との麗しい交わりなのだ。

主が嘆き悲しみから開放し、病を追い出し、貧しさから解放して下さったのなら、すぐに感謝するために戻り、以前、悲しみや病、貧しさのあった隙間を、主への賛美や御言葉、奉仕で埋めなくてはならない。

癒されても感謝する気が無いなら、むしろ癒されない方が良いし、奇跡を見ても信じる気が無いなら、奇跡など起こらないほうが良い。なぜなら、癒されても、
奇跡を見ても、なお主への方向転換(悔い改め)が無いまま、依然として罪を犯し続けるなら、前よりも、もっと悪い状態になってしまうからだ。

悪霊が出て行った時、そこを空き家の状態にしておくと、それは悪霊の好む飾り付け(コスメオー)となり、次に悪霊が帰って来た時、さらにたちの悪い悪霊を
七つを連れ込み、前よりもっと悪くなってしまう。しるしや奇跡を見ても悔い改めず、主の元に来ない者は、そのようになってしまうのだ。(マタイ
12:38-45)



主イエス様に癒され、良くしてもらったのなら、主の元に戻って感謝を捧げ、主の元に留まるべきである。

私達が「この事が解決したらあの事この事をしたい」という、主・不在の願望を持っている内は、解決は先延ばしになる可能性が大きい。なぜなら、自己中な動機を持っている限り、逆に災いになってしまうからだ。

天国とは、単に快適で気持ちの良いお花畑ではなく、神と共に住み、神と永遠に関わりを持つ所である。

全能であり完全な愛で愛して下さるお方・イエス様と、関わり続ける事。これこそ私達にとって全てである。

主に癒された後、幸いが与えられた後、富が与えられた後、主とどのように関わって行くつもりだろうか?

願いが聞かれ幸いになった暁にはしっかり感謝し、主といつまでも関わり続ける皆さんでありますように!


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2012年09月02日

安息に入るために(ヘブル4:1-11)

参照元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1086

どういう人が安息に入れるか。それは、聞いた御言葉に自分の信仰を結びつけ、御言葉に従う人である。
「彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:2-3)
御言葉に聞く事、聞いた御言葉を信じる事、それがどれほど大切であるかは、強調してし過ぎる事は無い。
主の御言葉が語られる時、私達の取るべき唯一の姿勢は、それに聞き、従順し、服従する事。
御言葉を聞いても心背ける者、不従順な者は、決して安息に入れず、そこに例外は無い。

そしてまた、御言葉に聞き従う事は、どんな尊い捧げ物よりも主に喜ばれる行為である。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル15:22)
この御言葉の通り、どんなくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主はそんな捧げ物を忌み嫌われる。
サウル王が退けられてしまったのは、彼が物欲におびき寄せられ、「こんな高価な良いものを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実でこれらを残すなら、主もきっと許して下さるだろう」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込んだからである。
『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。実に、主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は占いの罪であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪である。
主の御心から離れた所で、いかに預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったとしても、かの日、主から『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言われてしまう。(マタイ7:21-23)
ここの「不法(anomia)」とは、法に則らない事、法を超過する事、法を乱暴に扱う事である。

大いなる奇跡を沢山経験すれば良いものではないし、偉大な指導者に導かれれば良いものでもない。
偉大な指導者・モーセに率いられ、多くの徴や奇跡を見、体験し、奇跡を食べ、飲んだ、かの60万以上の民のうち、安息の地に入れたのは、わずか二人だったのは何故なのか。そこに思いを馳せるべきである。
安息に入れず荒野に屍を晒したのは、不信仰のためであり、従おうとしなかったからだ。(ヘブル3:15-19)
結局大切なのは、法に則る事、すなわち、御言葉に聞き従い、御心に歩む事である。
出エジプトの民が荒野で滅んだのは、律法の何か一つを違反したからではなく、神の定めた指導者モーセに従おうとしなかったからだったが、そのモーセは、後の時代には自分と同じようなひとりの預言者が現れるから、彼に聞け、と言った。(申命記18:15) その「彼」こそ、主イエスキリストである。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、365の「するな」と248の「せよ」から成る律法の全てではなく、全律法が指し示すお方、すなわち、「ことば」そのものなるイエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来る。(マタイ11:28-30)

そして安息に入った者は、自分のわざを終えて、休む。(ヘブル4:10)
自分の能力、自分の持ち物、そうした自分の何かに頼りの源を置く生き方が、十字架の死に渡され、これからは、キリストに生きて頂き、キリストに勝利して頂き、私達はそのお方と共に歩んで行く生き方が始まる。
これこそ、安息の生き方である。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル3:13) この安息に入るように努め、かたくなになって荒野で滅ぶような人が 誰一人出ないよう、日々励まし合い、勧めあって、信仰生活を歩んでいく皆さんでありますように!
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2012年08月29日

痴漢と同じやり口(創世記34:1-20)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1078
痴漢と同じやり口(創世記34:1-20)

シェケムの土地を買い取って定住しようとしたヤコブは、父親として最も起きて欲しくない事態が起こった。
『レアがヤコブに産んだ娘デナはその地の女たちに会おうと出かけて行ったが、その地のつかさ、ヒビびとハモルの子シェケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた。』(創世記34:1-2)

パダン・アラムから帰って間もない時だから、ディナはちょうどティーン・エイジャーである。
男兄弟の多い中、可愛がられて育った彼女は、きっと女友だちも欲しかったのだろう、土地の娘達に会いに行こうとした所を、シェケムによって無理やり辱められてしまったのだ。
その出来事に、父ヤコブは言葉を失い、兄弟達は心を痛め、大きな憤りと怒りを沸き起こさせた。

未婚の娘が暴力的に貞操を奪われる事。
それは現代日本ではさほど珍しくもないかのように聞こえるかもしれない。
しかし、それは神の国を生きる者達の間では、恥ずべきこと、許されない事である。(7節)

ハモルやシェケムの言葉には「自分達が悪い事をした」というニュアンスは一切存在せず、むしろ、息子がした事は逆にめでたい事、お互いにとって徳ですよ、という説得へと持って行き、この事をチャンスに我々はこれから仲良く前に進みましょう的な色合いも感じる。
ヤコブ達の側としては、あってはならぬ事が起きた絶望感で一杯なのに、シェケム達の側はあまりに脳天気、「えっ、なに暗い顔しているの?」とでも言い出しそうな感じである。

彼らには貞操という概念は無く、性交渉は快楽を得るスポーツの一種のような感覚で行い、結婚は聖なる契約という畏れも無く、むしろ結婚が、人生をより有利に展開させるための手段と化している。
このように、神の国の価値感と、世の価値化とは、絶望的な隔たりがあり、決して相混じり得ないのだ。

彼らはディナを自分達の家に迎え入れるために説得しに来たが、その説得は、神の民を堕落へと導く誘惑である。
サタンが神の民を誘惑する手段は、エデンの時からこのかた、「目の欲」「肉の欲」「暮らし向きの自慢」と相場は決まっている。(創世記3:1-6、1ヨハネ2:16)

「あなたがたはわたしたちと婚姻し、あなたがたの娘をわたしたちに与え、わたしたちの娘をあなたがたにめとってください。」(9節)
世の女は神の国の女よりも、「女」のアピール方法に長け、男の落とし方などに抜け目が無いものである。(ルカ16:8)
彼らはまず、目の欲、肉の欲に訴えたわけである。
しかし、神の民の男が、世の女の美しさに心奪われる時、それは破滅への第一歩である事を、忘れてはならない。(創世記6:1-7)

『こうしてあなたがたとわたしたちとは一緒に住みましょう。地はあなたがたの前にあります。ここに住んで取引し、ここで財産を獲なさい」。』(10節)
我々と契約を結べば、土地も暮らしも保証されますよ、というのである。
ここでは「暮らし向きの自慢」を刺激している。

そしてシケムは、サタンがイエス様に「もしひれ伏して私を拝むなら、世の栄華を全て差し上げましょう」と言ったのと同じような誘惑を仕掛けてくる。
『シケムはまたデナの父と兄弟たちとに言った、「あなたがたの前に恵みを得させてください。あなたがたがわたしに言われるものは、なんでもさしあげましょう。たくさんの結納金と贈り物とをお求めになっても、あなたがたの言われるとおりさしあげます。ただこの娘はわたしの妻にください」。』(11節)

日本人は特に、この手の「まるめ込み」に弱く、妥協してしまいやすい。
なぜなら日本人は美徳として、相手の価値観を尊重し、空気を読み、和をもって尊し、とするからだ。

本来なら、娘を陵辱した相手と穏やかな話し合いなどできないものだが、過度に和を尊ぶ人、あるいは押され弱い人なら、たとい相手がどんなに邪悪な者であっても、フレンドリーな態度で来られた時、その勢いに飲まれ、なごやかな空気になっているのだからそれを乱してはならない、と、飲み込まれてしまいがちである。
住居も、富も保証され、しかも美人でセクシーな女性と結婚できる、という条件までついてきてしまったら、ディナには可哀想だけれど堪らえてもらって、、、という事になりかねない。

騙されてはならない。
神の民は、異邦人と交じり合ってはならないし、娘が汚された事を、そのまま相手の心に罪悪感も登らせないまま、放置してはならないのだ。

ヤコブはこの時、実に弱かった。
神に勝った者「イスラエル」らしくなかった。
娘の事で気落ちしていたのかもしれないが、真理に立ち、家長として霊的権威を持ってさばく事はせず、全部、息子たちに任せっきりだった。

しかも息子たちは、ヤコブの目の前で、イスラエルがカナン人と血が交じり合う事を許すような契約に、条件付きではあるが、同意するかのように交渉を進めている。
もっとも、息子たちには企みがあって、騙すために表向き同意したのだが、ヤコブはそんな裏がある事は知らなかったはずである。
御心に反した契約が進んでいくのを、黙認していたのである。
その結果、さらにややこしい事になってしまった。

ヤコブは一体いつ、敵に足がかりを渡してしまい、手も足も出なくなってしまったのか。
それは、ほんのささいな事だが、自分達が長く住むために、異邦人シェケムの土地を買ってしまった事に、発端がある。

確かにアブラハムも、土地を買った。
しかしそれは、異邦人の中に混じって生活する為ではなく、死ぬ準備のためであった。
私達も、肉的ないのちを生かす事をメインに据えるなら、この時のヤコブのように、ロトのように、いざという時に苦しい思いをする。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と同様、キリスト者はいかに自分に対して死ぬか、すなわち、十字架を、いつも意識すべきである。

サタンが侵入して来るやり口は、痴漢と同じである。
いやらしい手を伸ばして、あなたの領域に侵入しようと、探りを入れて来る。
その最初のコンタクトの時、決して無抵抗であってはならない。

サタンの、いやらしい手にさわられて、「ああ嫌だな、気持ちわるい、早くどけてくれないかな」と、いくら心に念じても、無駄である。
むしろ、その時無抵抗であった事にサタンは足がかりを得、前例を得た事に調子に乗って、どんどんいやらしい手を伸ばし、あなたの聖なる領域をさらに侵略して来る。
しかし、たといサタンに足場を渡してしまったとしても、主は、脱出の道も用意して下さる。
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2012年08月24日

ヤコブからイスラエルへ - ペヌエルでの格闘(創世記32:22-32)

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ヤコブからイスラエルへ - ペヌエルでの格闘(創世記32:22-32)

ヤコブは、殺意を持つ兄・エサウとの再会に備え、持ち物を二手に分けてリスク分散し、主に祈り、至れり尽くせりの贈り物の手はずも整えて備えたが、なお、心配と思い煩いで頭がいっぱいだった。
『彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。』(創世記32:22-23)

ヤコブは20年前、故郷を出てラバンの所へ逃げる時は、杖一本しか持っていなかったのに、今や彼は、二人の妻に二人の女奴隷、11人の息子、多くの家畜や奴隷を所有している。
しかし、これから会おうとする兄の機嫌いかんでは、愛する妻も、大切な子も、財産も、自分のいのちも、全て失ってしまいかねない。
ヤコブは、変える事の出来ない過去や、消しようのない兄の憎悪、逃れようのない未来に、そして、どうしようもない自分に憂い、ついに、たった一人で主の御前に出たのだ。

私達も、罪ある人間である以上、変えたくても変えられない過去のあの事この事、自分の愚かさの故に誰かから受けてしまう憎悪の一つや二つは、あるかもしれない。
そして、自分がしてきた事・しなかった事の刈り取りが待ち受ける逃れようのない未来におののき、そのようにしてしまった、どうしようもない自分を苛む事もある。
そのような時は、ヤコブのように、ただ一人、主の御前に出るべきである。

『ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と「組打ち(アバック:レスリング、相撲)」した。』(創世記32:24)

彼はひとりの人と、すなわち、主ご自身と、実際に、相撲を取ったのである。
抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘である。
夜明け前の最も暗い闇の中で、ヤボクの川のせせらぎと共に、二人の男たちが組打つ音、格闘の叫び声や息づかいが、夜明けまで響きわたっていたのだ。
その格闘は、ヤコブの命運を賭けた、力を尽くした祈りでもあった。

「ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。」(25節)
ももの関節が外れるのは、かなりの激痛であろう。
観客がいたとすれば、もはや勝負あった、と見る所だろうが、それでもなおヤコブは、彼をつかんで離さなかった。
もはや取っ組み合いと言えるようなものではなく、ただ、その人に全てを委ね、おぶさっているだけのような格好であったろう。

夜は明けようとしており、ただ、川のせせらぎだけが響いている。
『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。』(26-27節)

彼は名を尋ねられた時、兄エサウのかかとを掴んだ事、また兄だけでなく、色々なものを掴んで来た事を思い出したろう。
そして今、祝福をして下さるべきお方をつかみ、握り締めている。

ヤコブは、母の胎から出る時は兄のかかとを掴んで離さず、ヤコブという名が与えられた。
そして、人生を終える時は、杖の先を掴んで、礼拝しつつ息を引き取った。(ヘブル11:21)
つかむ事こそ彼の生き様であったが、そんなヤコブの名に、彼は終わりを告げさせ、新しい名を与える。

『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節)
イスラエルという名、聖書でここに初登場である。
この名前には「神と戦う」「神が支配する」という意味がある。

ヤコブは格闘の果てに、ただ、祝福して下さるお方のみを掴み、もはや祝福して下さるお方に寄りかかるしか無いこの状況で、新しい名前「イスラエル」が与えられた。
もはや、長兄のかかとを、すなわち、人間的な祝福を追いかけ、掴みとるような、以前の人生には、終わりを告げられた。
祝福そのものなるお方と取っ組み合い、勝利し、神の支配の内を歩む人生へと、造り変えられたのだ。

ヤコブはももを打たれ、力を奪われ、もはや自分の力では立行けず、ただ神の憐れみによりすがって生きるしか無い。
これから兄と会うのに、大丈夫なのだろうか?
大丈夫なのである!
なぜなら、人が弱い時にこそ、主が強いのだから。

『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)

自分の力に頼らず、ただ主の力に頼って生きる。
それこそ「イスラエル」の由来であり、私達・霊的イスラエルのアイデンティティなのだ。

神にどうしてもしていただきたい事はあるだろうか。理不尽な世の中に憤りを覚えているだろうか。神に対して納得できない思いがあるだろうか。
もしそうなら、ヤコブのように、ヨブのように、ハンナのように、エリヤのように、スロ・フェニキヤの女のように、主の御前にただ一人で出て、なりふり構わず、格闘の祈りをする時である。
思う存分組み合い、そして、ただその御方を掴み、全てを委ねておぶさるまでに力を出し切る時、その御方から答えと、祝福と、新しい名前、新しい生き方が、示されるのである。

主は、天高くふんぞり返って、人間からかけ離れたお方ではなく、人と「関係する事」を求めておられる。
主は全宇宙を造られた偉大なお方であるのに、人として降りて来られ、私達と格闘できる程にまで小さくなられ、相撲を取る程にまで生々しく関わて下さった。

祝福は、ただ口を開けて祝福が落ちてくるのを待つ者に降ってくるものではなく、激しく責め立てる者によって、奪い取られている。(マタイ11:12)
私達も、ヤコブのように、祈りにおいて相撲を取る程の気概も持つなら、新しい名前が与えられ、祝福が与えられ、新しい人生が与えられる時が近い。
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2012年08月19日

立派な子「バルテマイ」になるには?(マルコ10:46-52)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1067

立派な子「バルテマイ」になるには?(マルコ10:46-52)

イエス様が弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイ(意味:立派な子)という目の見えない人が、道ばた(highway side)にすわって、物乞いをしていた。(マルコ10:46)
多くの人達が彼を見下ろし、彼の傍を過ぎて行った。人々にどんな目で見られたのかは彼には見えない。
ある人は近づいて、彼に幾らかを施し、ある人は馬車で砂埃を巻き上げながら、目もくれずに行った。
成人した彼を養ってくれる家族は、きっといなかったのだろう。自分のみじめな姿を晒すのが嫌だからと言って、人通りのない裏路地にいては、物乞い稼業は成り立たない。大通りに出て、人が通る音を聞く度に、明瞭に声に出して憐れみを求め、落としてくれる恵みでその日の糧を得る、という日々を送っていた。

彼は、目が見えない事によって、世の事柄の多くの点において、周りの人達に比べて遅れを取っていた。
周りに比べて多くを経験出来ず、多くの楽しみも、知らずにいた。人はそれを不条理と呼び、何のためにそうなったのか、誰のせいで、と議論する。イエス様の弟子達でさえ、そう議論した。(ヨハネ9:2)
しかし主イエス様は、誰のせい、とは言われない。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同3節)と言われる。
イエス様の辞書には、誰々と比べて、などという文字は一切無いし(ヨハネ21:22)、世の楽しみを味わったかどうか、など、救いには一切関係無い。それどころかむしろ、それらは救いを得る上で邪魔にさえなる。
多くを経験できれば良い、多くの楽しみを知れば良い、というものではない。バルテマイは、多くを知らないが故に、多くの人が見過ごしがちな、そして、真に人間に必要な事を、はっきり知っており、求めていた。
すなわち、ダビデの子孫から救い主が現れる事、そして、ナザレのイエスと言われるお方が、その証拠としての奇跡を行なっており、その御方なら自分を救うことが、きっとおできになる、と、信じていた事である。

ある日彼は、通りがいつもと違う興奮に包まれ、何か喜ばしげな雰囲気であるのを、感じ取った。
何事かと人に聞くと、そのナザレのイエスがお通りだ、と言うではないか!そこで彼は声を張り上げた。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」

バルテマイが助けを求めて叫んだのは、ダビデの子イエス様に、である。決して、イエス様に群がった群衆に、ではない。
ところがキリスト教会では、なんと多くの人達が、イエス様に助けを求めるのではなく、イエス様を求めに来た「人間たち」に、助けを求めているだろうか。
バルテマイがもしイエス様からではなく、イエス様をネタとして群がった群衆から、恵みを得ていたのであれば、そんな得た物は、すぐに無くなってしまう。
同じように私達も、教会のいわゆる「優しい人達」を当てにし、彼らから助けを得ようとして、イエス様に助けを求めないとしたら、バルテマイが得たような根本解決など、決してあり得ない。

多くの人達は、イエス様を、ナザレの田舎出身の一有名人のように呼ぶ。しかしバルテマイは、イエス様を自分を救って下さるお方だと信じ、来たるべきダビデの子孫、救い主として呼んだ。
大勢の人々は、彼を黙らせようと、たしなめた。私達も救いに近づこうとする時、イエス様を呼ぼうと、声高に叫べば叫ぶ程、世は、周りは、邪魔をする。しかし、そのような時は私達も、バルテマイのように、イエス様を呼ぶ事を、止めてはならない。イエスこそ来たるべきメシヤであると、叫ぶ事を止めてはならない。
イエス様は「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫ぶ声に耳を傾け、足を止め、その人を呼ばれる。
バルテマイは、イエス様が自分のことを呼んでいる、と分かると、上着を脱ぎ捨てた。
その上着は、それまで彼の人生の色々な場面で、寒さや日差し、砂埃から守ってきた大切なものであろう。
しかし同時に、彼の汗や垢、砂埃まみれで、ダビデの子イエスの御前に出るには、相応しくないものである。
私達も、救い主の御前に出る時、自分の汗や垢、ホコリにまみれた大切なものを、脱ぎ捨てるべきである。
たといそれが、どんなに大切であろうとも、主の御前に、自分の汗や涙の成果物は、一切無意味である。
むしろ私達に大切なものは、イエス様から着せていただく贖いの衣である。

彼は自分の足で、手探りで、イエス様にいると思われる方へと、一歩一歩進んで行った。そして何歩か行った時、声があった。「わたしに何をしてほしいのか。」
イエス様は、私達が何を求めているのか、当然ご存知である。しかし私達は、イエス様のほうへと自分の足で手探りでも行き、何をしてほしいのかを、自分の口で告白し、自分の意志を明確に伝えるべきなのだ。
彼は「ラボニ(私の先生)、見えるようになる事です」と答えた。主は、誰の主でもなく、私の主である。
そう告白した彼に、イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と答えられた。
そして彼は見えるようになった。見えるようになったら彼は、イエス様の行かれる所に、ついて行った。
彼には以前の生き方も、以前の上着も必要なく、イエス様との新しい人生が始まった。(2コリント5:17)
私達もイエス様に癒され、神の御技をこの身に受けたのなら、イエス様にどこまでもついて行くべきである。
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2012年08月13日

信仰の競争(ヘブル12:1-2)

信仰の競争(ヘブル12:1-2)

<私達は競技者であり、目標がある>
オリンピックの選手達はメダルを勝ち取る事を目指しているが、私達キリスト者は、何を目指すべきだろうか。
キリスト者の目標は、神によって定められており、それは、御子キリストに似た者へと造り変えられて行く事である。そのためにこそ主は、万事を変えて益とし、私達を最善へと導いて下さるのだ。(ローマ8:28-29)
万事を変えて益として下さる、という御言葉を、何か、神様はやがて自分の願い通りにさせて下さるものだと、勘違いしている人は多いが、主は「ワタシ」の身勝手な願望を成就させるための道具ではない。
私達の益とは?最善とは?それは、御子と同じ姿になっていく事であり、私達が大人になってキリストの満ち満ちた身丈にまで達し、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する事だ。(エペソ4:11-15)

<競技者であるからには競技するフィールドがあり、観客もいる>
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブル12:1-2)
皆さんは知っていただろうか?私達もキリストにあって競技者であり、そんな私達を見守る観客がいる事を。
私達がオリンピック観戦して、自国の競技者を応援するように、神の国でも、信仰の先人達が、地上というフィールドで競技している「私達」を固唾を飲んで見守り、応援し、自国のために賞を取る事を願っている。
そういうわけだから、私達も、まとわりつく一切の罪の重荷を捨てて、忍耐して走り続けるべきである。
何を目指して走り続けるのか?それは、信仰の創始者であり、完成者であるイエスを目指して。

<この競技にはルールがある>
私達キリスト者は皆、キリストに選びだされ、召しだされた競技者であるからには、ルールを守らなくては、栄冠を受けられない。(2テモテ2:1-8)
競争選手は、スタートの合図と共に、一斉にゴールを目指して走り出すものだが、フライングを繰り返したり、合図が出されたのに走り出さず遊んだりしていたら、失格になってしまう。
同じように、神の国の競技者も、主の合図にフライングをしたり、御言葉のルールを無視して身勝手にしているなら、やがてイエローカードが出され、それをも無視して身勝手を続けるなら、失格者となってしまう。

<私達の競技の内容>
私達のこの人生は、イエスキリストを目指し、障害物を乗り越えつつチェックポイントを通過して行く障害物競争のようなもので、よりキリストの似姿に近づいた者が、より優れた栄冠を勝ち取る事が出来る。
人生という競技において、より高いスコアを出すコツは、イエスから目をそらさず、イエスを目指して走り続ける事に限る。それだから敵陣営であるサタンは、いかにそこから目を離させるか、という事にやっきになる。
障害物競争には数々のハードルがあるが、信仰の障害物競争で立ちはだかるのは、諸々の誘惑である。
ある人は金銭的誘惑というハードルに目を奪われて足止めを喰らい、ある人は性的誘惑というハードルに目を奪われて足止めを喰らって、アドバンテージを逃してしまう。
あるいは、場外の敵陣営から罵声を浴びせられて、気を挫かれたり、悲しんだりして、足が止まってしまう。
あるいは、周りの選手にどんどん先おこされ、取り残されていく自分自身を見て、心萎えてしまう事もある。
忘れてはならない。目を向けるべきは、ハードルではなく、周りではなく、自分でもなく、イエス様だ。
イエス様に目を留めつつ走っているなら、最短コースでチェックポイントを次々に通過できるが、イエス様から目を反らして、世の雑事や心配事にじっと目を凝らし、留まり続けているなら、次に進む事は出来ない。

<私達を待ち受けている栄冠>
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(2テモテ4:7-8)
私達を信仰の選手として召しだして下さった主を喜ばせるために、しっかりとルールを守り、イエス様から目を離させようとする障害物には目をくれず、イエス様だけを見続けて走りぬく皆さんでありますように。
競技を終えるかの日には、雲のように取り巻く証人達の歓声を受けつつ、天に凱旋し、「よくやった、良い忠実な僕よ」と主に褒められ、決して朽ちることのない栄光の冠を、主から頂く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
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2012年08月11日

サッカー日韓戦に思う

今回のサッカー日本・韓国戦は、本質を外した所で思惑が渦巻き、もはやスポーツの健全な一試合ではなくなってしまった事は、誰もが見た事だろう。
今回の試合を一言で表現するなら「的外れ」であり、「的外れ」のギリシャ語「ハマルティア」を日本語に訳すなら「罪」という言葉になる。

本質を外して行くと、どんどん不健康に、苦々しく、その行為そのものが呪いとなって行ってしまうのは、スポーツに限った事ではなく、全ての人間の営みに当てはまる事だ。
人間の欲望が渦巻いて、本質を外してしまった夫婦関係、本質を外した子育て。
それらは実に苦々しい、呪われた実を結ぶ。

創世記30章は、今回の試合にも似た、どろどろとした思惑が渦巻く壮絶なバトルを見る事ができる。
ラケルはヤコブの寵愛を一身に受けている事をネタに、姉の闘争心に火をつけ、二人の奴隷をも巻き込み、本来は健全で麗しいはずの夫婦関係、夫婦の営みを、競争の火に投げ込んでしまい、苦々しく、急かされた、安息の無いものとしてしまった。

本質を外してしまった苦々しい呪いのサイクルから助かる方法は、「的外れ」を改め、本来目指すべきお方、主に立ち返る事である。
姉・レアは、夫が果たすべき義務を、きちんと行使してくれない、という、不条理な現状の中で、自分が受け取って当然の権利を手放し、主に目を向けた結果、多くの子を産み、最後には夫と共に葬られた。
(レア - 嫌われ女が得た後の栄光:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1048&cid=23
ラケルも、最終的に主に願い求めた結果、やっと念願の男の子を授かった。

主は、人間の陰謀渦巻く争いすらも益として用いる事の出来るお方である。
人の目からは醜く見える姉妹の熾烈な出産競争さえ、主は益として用い、アブラハム以来の子孫が産んで増えて地に満ちるようにと、用いて下さったのだ。
(ラケル - 争いを仕掛ける雌羊:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1049&cid=23

結局のところ、主の御名を呼び求め、祈る事。これに限る。
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2012年07月29日

あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1032

あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)

雅歌は聖書の他の書とは明らかに違う。 読んでいて恥ずかしくなるほど男女の愛の悦びが生き生きと表現され、近寄りがたい崇高さも、規律的な厳しさ、難しさも、一切無い。
この書は、ユダヤでは30歳以下の者が読む事を禁じられた。 男女の愛の悦びは、成熟して結婚の契を交わした男女のみに相応しいように、キリストとの関係も成熟さを増せば増すほどに、宗教的な束縛感から開放され、自由になり、悦びに満ち、あたかも新婚夫婦のような悦びの関係に入ってくる。
キリストと弟子達は、はじめは師弟関係(ヨハネ13:14)だったのが、主が命じる事を行なう内に、友の関係となり(同15:14)、十字架の後には兄弟関係(同20:17)となり、やがては、キリストのからだなる教会に接合され、成熟する事によって、花婿と花嫁の関係となっていくのだ。(黙示録21,22章)

地上のものは全て天の写し、影であり、新婚の甘い日々もまた、我々がやがて天で味わう事の影である。
「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌2:3)
恋心の乙女は、意中の男性以外が雑木に見えるように、私達も成熟すればする程、巷の神々や権威ある者達、世の富や宝は、全てどうでも良く見えて来て、唯一頼りとしたいと思うのは、キリストのみとなっていく。
主の羊は、真の羊飼いである主の声を聞き分ける。 彼らは、いと高き全能なる神の元に身を寄せ(詩篇91)たいと心底願い、その陰に宿り、御口から出てくる御言葉を甘いりんごのように慕い求めるのである。

「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌2:4)
主は私達に、敵の面前で酒宴をもうけ、頭に香油を注いで下さり、盃を溢れさせて下さる。(詩篇23:5)
敵の面前で、私達は「主ご自身」という旗で覆われ、私達の上ではためくその旗印は、愛である。
「干しぶどうの菓子で私を力づけりんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅2:5)
干しぶどうもりんごも、他の箇所では、喜びを表している。(2サムエル6:19、イザヤ16:7-10、ヨエル1:12)
男女の愛には喜びと潤いがあるように信仰生活にも喜びと潤いが必要であり、それを主に求めるのである。

「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌2:6)
女性にとって、好きな男性の左腕の中に腕枕され、右腕で抱かれている一時は、至福の時ではなかろうか。
それは、女性は男性のあばら骨から取られたからであり、女性の居場所は元々男性の懐だったからである。
男女が並んで歩く時、男性が右側で女性が左側である事が多いのは、男性が利き腕を自由に動かしてリードし、女性は利き腕で男性を離さず、男性にリードされて行く姿が、自然だからである。
ベタニヤのマリアは、イエスの足元というりんごの木の下で、イエスの口からこぼれてくる御言葉という甘いりんごを、いつも慕い求めていた。その場所その時が、何よりの至福の場所、至福の時だったからである。
その心でイエスを慕い求め、イエスの御思いを理解したからこそ、他の弟子達が誰も出来なかった葬りの準備を、唯一、彼女だけがその時を悟り、その準備が出来たのである。
イエスと深い交わりをして御心を知る、という事が無いなら、たとえ神のために良かれと思って何かをしたとしても、それは自分の思いに過ぎず、弟子達のようにとんちんかんな、あさっての事をしてしまうものである。
マリヤは、マルタや弟子達から色々の否定的な言葉を浴びせられてもイエスご自身が直接保護して下さったように、イエスの御翼の陰に宿る私達を、主ご自身が直接的に保護し、敵を𠮟り飛ばして下さるのである。

「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌2:7)
かもしかや野の雌鹿は、繊細な動物である。自分を無理矢理恋心へと持ち込むと、すぐヘンな男に引っかかってしまうように、主に対する愛も、無理やり駆り立てようとせず、自然に湧き起こるのを待てば良い。
シャロンの花であるイエスを、甘いりんごのように慕い求め、マリヤのように、主の足元が慕わしくて仕方がなくなるまでに、繊細な主への愛を、自然な形で、大切に育み育てていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
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2012年07月22日

有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1020

有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)

「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」(1コリント11:17)
兄弟姉妹は、単に集まれば良い、というものではない。「有害な集まり」というものが、確かに存在する。
良い集まりは、人をいのちで満たし、力強くするが、有害な集まりは、人を不安に導き、焦らせ、疲れさせる。
良い交わりと有害な交わりはどうやって見分ければいいか?それは、ガラテヤ5:19-23の、肉の行いのリストと、御霊の実のリストを見比べて、どちらの実を結んでいるかを見れば良い。
その集まりによって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が満ちるなら、その交わりを続けるべきである。しかし、その集まりによって、不品行や汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが増し加わるなら、止めた方が良い。

コリントの集まりが損失になっている理由は、肉の結果である分裂分派がある事だとパウロは言っているが、同時に、本当に残るべき者が明らかにされるためには、分派もやむを得ない、とも言っている。(19-20節)
人が教会から去っていく理由は色々あるが、もし、教会が正しく御言葉を伝え、霊的に問題無いのに、自分の意見や欲する事が通らない、というので教会を去っていくのなら、その人はそのまま去らせれば良い。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足されるべき所だからである。
また、教会の働き人は、人に仕えて人を満足させる、単なる「優しい人達」ではない。
教会の働き人とは、主イエスのために働き、仕える人達である。もちろん主は、人に仕えるように命じておられるが、主を差し置いて、人に優先的に仕えるのは、本末転倒である。
人の満足を求めるあまり、人の拒否や離別を恐れるあまり、御言葉を希釈したり、曲げたりしてはならない。

「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。」(1コリント11:20-21)
原語の位置から、パウロは極めて強い調子で「そんな飲食は、決して主の晩餐では無い!」と憤慨している。
教会の中で、真に助けるべき弱い人や貧しい人を軽んじ、辱めたりして、躓きを与える者たちがいたのだ。
富んだ者も貧しい者も、共に主にあって一つの食卓に与るようにと、整えられた聖なる主の愛餐を、俗悪なおしゃべりしたり、酔ったり、感謝も無くつまんだりして、貶めてしまった事を、彼は激しく憤った。
「神の教会」は、食べたり飲んだり、寝たり、おしゃべりしたりといった、社交サロン的な、使い勝手の良い施設のような場所だと思ったら、大間違いである。
神の教会は、聖なる主イエスの御体であり、聖なる主に礼拝を捧げ、共に主と一つとなる、聖なる所である。

間違った幻想を教会に求めて来て、物質的・霊的にも食い散らかす者を、主は忌み嫌われる。
パウロはここで、自分の食欲を満たそうと我先に飲み食いする者を叱責したが、それは何も、飲み食いの事だけでなく、聖徒の尊い思いやりや、きよい良心を食い散らかしたり、礼拝の時間を食い散らかしたりして、真にそれらを求めている人たちに、それらが行き渡らないよう食い散らかしてしまう者達も、含まれる。
「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。」(22節) 神の教会とは、キリストの御体である。
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」(29-30節)

人が良い方向へと変わるのは、教会が支援する食料やお金、良心的な思いやり等ではない。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変わるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならず、害になるだけである。
私達の集まりの中心は、主イエスであり、主イエスの御体を覚えて、全ての事を行うべきである。(24,25節)
主イエスを覚え、真に必要を覚えている人に支援し、共にひとつの食卓に与り、ひとつ主の御体に与って、ますます純粋で聖なる者とされていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
posted by リチャード at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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