2013年03月09日

永遠の衣に何を織り込むか(黙示録19:6-9)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1342&cid=3

永遠の衣に何を織り込むか(黙示録19:6-9)

第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

第二礼拝・説教音声:右クリックで保存

週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存


キリストにあって忠実な働き人だったある姉妹が、天に凱旋された。

彼女の生涯は、主の御前に尊い日々で綾なされていた。子供たちを、しっかりと神の働き人として育て上げ、子や孫からは福音のための働き人たちがおこされ、
その働き人達を通して、多くのキリストにある霊的な神の子達が、彼女から産まれ出て、そのいのちは、今も産んで増えて地に満ちて行っている。



彼女のその生涯は、主の御前に尊く、美しい綾織り物のような生涯であり、今や、キリストの花嫁として、新しいからだが着せられ、天のまことの夫の懐で、世の諸々の煩いや病から解放され、安息を得ている。

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示19:8) 「衣」は聖徒たちの正しい
行いである、と書いてあるからには、私達はこの地上で、日々の「正しい行い」をもって、天国で着るための「衣」を織っているようなものであろう。

私達はこの地上の一日一日の「行い」を、どのように正しくできるだろう。

どうしたら、天で着せて頂く永遠の衣を、より美しく完璧に仕立て上げる事が出来るだろうか。

それは、一言で言えば、主イエス・キリストと共に歩む事によって、である。



キリスト者として歩む人生は、決して平坦なものではない。キリストを信じている故の患難があり、迫害もあり、災いもある。私達もまた弱く、時に誘惑に負けて罪を犯してしまう事もある。

私達の力には限りがあるが、キリストには限り無き力があり、キリストと共に歩むなら、どんなに非道く、耐えがたいような困難でも、不思議と神からの力で守られ、平安の内に歩む事が出来るのだ。

ステパノは、常人ならばとても耐え切れないような迫害の中でも、聖なる平安の内にキリストを証した。

群衆は口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。そのよう
な暴力的な混沌の中、ステパノは御使のような面向きで、殺意に満ちた群衆をキリストのように執り成し、祈り、美しい平和の内に天に凱旋した。(使徒
7:54-60)

彼に微塵の絶望も憎しみも悲嘆も無く、世のものならぬ平安に満たされつつ、眠りにつけたのは、なぜか。

それは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)

世の中の人々、あるいは、呪われてしまった自然界が、殺意に燃えて私達を飲み込もうとする事があるかもしれない。そのような状況でもステパノのような平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。

キリストの愛と守りは、生も死も超えている。死も、命も、御使いも、支配する者も、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできない。(ローマ8:39)



もし私達が地上で身勝手に歩み、主イエスを無視して日々を送るなら、その分だけそこがほころびとなり、いざ天に召された時、その部分は焼きつくされ、僅かにキリストと歩んだ部分しか残らない。(1コリ3:11-15)

キリストと共に歩み、キリストにあって何かを行う時、私達の人生という織物は、キリストにあって織りなされ、それは「聖徒の正しい行い」という清い衣とし
て栄光の内に永遠に残されるのであり、そして多くの聖徒達によって紡がれた織物が完成する時、キリストの花嫁の光り輝く衣装が完成し、花嫁として迎えられ
るのだ。



今や彼女は、キリストの花嫁として迎え入れられ、目の涙をすっかりぬぐい取られ、全く新しいからだを着せられ、イエス様の懐に抱かれ、安息している。(黙
示録21:1-7) そして彼女のように、天では多くの信仰の先人達が、私達の地上での歩みを応援し、執り成し、天の栄光ある御国へ入れられる日を待って
いる。

「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれ
ている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1-2)

今、地上に残されている私達も、信仰の先人達に続き、イエスから目を離さず、イエスと共に歩み、「正しい行い」という永遠の衣を、共に地上でしっかりと紡いでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!


posted by リチャード at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月04日

いちじくの葉か、犠牲の衣か(創世記3:7,21)

http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1353 : 引用元

いちじくの葉か、犠牲の衣か(創世記3:7,21)

第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存


人類に罪と死が入ってしまった瞬間、すなわち、アダムとエバが「善悪を知る実」を食べた時、真っ先に彼らに起きた事は、目が開かれ、自分達は裸で
あった事を知った事であり、その事を見て知った彼らが真っ先に実行した事は、いちじくの葉をつづり合わせて、裸を覆う事だった。(創世記3:7)

神との関係が絶たれてしまった人間は、呪われてしまった自然や環境、人間関係の脅威の中を、自身の体力や知識、思いや意志、感情をやりくりし、自力で渡り合って行かなくてはならなくなってしまった。

この、自分の恥ずかしい所、見られて欲しくない部分を覆う行為こそ、全ての人が持つ「取り繕い」である。

アダム以来人類の呪われた生き方は、自分の弱さや裸をカヴァーするために力を蓄え、知識を蓄え、技術を発展させ自活して行くもので、いちじくの葉はやがて
発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行った。そして、人はまた、浅知恵による言葉の「いちじくの葉」で自分を覆う生き方をも身につけた。

アダムは、自分の罪を告白せず、逆に神が与えて下さった妻が悪いかのように、詭弁といういちじくの葉によって自分の罪を覆おうとし、人を責め、神を責めた。エバもまた同様であった。(創3:12-13)

小さい子供は、誰からも教えてもらわないのに、言葉を覚えた当初から、詭弁という「いちじくの葉」で自己弁護する。そのように人は、生まれながらに取り繕う「くせ」が、身にしみてしまっている。

いちじくの葉がやがてぼろぼろになってしまうように、それは永遠に保つものではない。取り繕って一時的に救われた気がしても、永遠に続くものではないため、喪失への恐れや不安がどこかしらあるものだ。

神を離れた人がやる事なす事は、全て、主の御前に実を結ばない「取り繕い」である。(ヨハネ15:5)

神に対して有用な実を結ばない「いちじくの葉」という取り繕いだらけの人は、主によって枯らされてしまう。

イエス様が唯一、呪いの奇跡を行われたのは、葉っぱばかりのいちじくの木に対してであった。(マタイ21:18-22)



人は、何によって罪と裸を覆って頂けるのか。それは、神が一方的に与えて下さる衣によってである。

「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)

主は、人を裸のままエデンの外に追い出す事をなさらず、呪われた地でもやって行けるように、何かしらの動物を殺して犠牲とし、その皮を剥がれ、それを人に着させて下さり、それから救いのご計画を発動された。

日本で犯罪を犯したら日本の法律に則って対処するように、神の御前で罪を犯したなら神の方法に則って罪を対処しなくてはならない。神の御前に有効な、罪の贖いの方法。それは、いのちの犠牲である。



イエス様は、たとえ話の中で、王が婚礼に客を招いた際に、礼服を身に着けてこなかった者は外に追い出された話をされた。礼服は王から支給されるものであ
り、せっかく支給されたものを跳ね除けて、自前の服を身に着けて行くなら、善人であれ悪人であれ、外の闇に追い出されてしまう。(マタイ
22:11-14)

同様に、神の支給して下さったキリストという贖いの衣を身に着けず、自前のいちじくの葉で取り繕うなら、どんな善人であっても、天の王国から追い出されてしまうのである。

キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着るなら、決して裸になる事は無く、死ぬべきものはいのちに飲み込まれるのである。(2コリ5:1-4)

アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、自前の方法では、神の前に罪や裸を覆った事にはならない。ただ、神の側が示された衣で覆われてのみ、御前に有効なのだ。

ヤコブは自前の服ではなく兄エサウの晴れ着や動物の毛皮を纏ったため父からの祝福をいただき、エステルは自分好みのものではなく勧められたもの以外は身に
つけなかったため王の好意を受け、大祭司ヨシュアは、ただ一方的に、汚れた衣を脱がされ、神が用意された礼服を着せられた。

ルツはナオミから言われた通り、ボアズの衣をまくって彼の懐に入り、「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしため
を覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」と言って迫ったために、栄光の家系へと入れられた。(ルツ記3:9)

私達も、まことのボアズであるキリストの懐に飛び込んで行き、申し上げるべきである。

「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは私を、罪と死から、いのちへと買い戻して下さるお方です。」と。


posted by リチャード at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月26日

永遠の衣に何を織り込むか(黙示録19:6-9)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1342

キリストにあって忠実な働き人だったある姉妹が、天に凱旋された。
彼女の生涯は、主の御前に尊い日々で綾なされていた。子供たちを、しっかりと神の働き人として育て上げ、子や孫からは福音のための働き人たちがおこされ、その働き人達を通して、多くのキリストにある霊的な神の子達が、彼女から産まれ出て、そのいのちは、今も産んで増えて地に満ちて行っている。

彼女のその生涯は、主の御前に尊く、美しい綾織り物のような生涯であり、今や、キリストの花嫁として、新しいからだが着せられ、天のまことの夫の懐で、世の諸々の煩いや病から解放され、安息を得ている。
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示19:8) 「衣」は聖徒たちの正しい行いである、と書いてあるからには、私達はこの地上で、日々の「正しい行い」をもって、天国で着るための「衣」を織っているようなものであろう。
私達はこの地上の一日一日の「行い」を、どのように正しくできるだろう。
どうしたら、天で着せて頂く永遠の衣を、より美しく完璧に仕立て上げる事が出来るだろうか。
それは、一言で言えば、主イエス・キリストと共に歩む事によって、である。

キリスト者として歩む人生は、決して平坦なものではない。キリストを信じている故の患難があり、迫害もあり、災いもある。私達もまた弱く、時に誘惑に負けて罪を犯してしまう事もある。
私達の力には限りがあるが、キリストには限り無き力があり、キリストと共に歩むなら、どんなに非道く、耐えがたいような困難でも、不思議と神からの力で守られ、平安の内に歩む事が出来るのだ。
ステパノは、常人ならばとても耐え切れないような迫害の中でも、聖なる平安の内にキリストを証した。
群衆は口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。そのような暴力的な混沌の中、ステパノは御使のような面向きで、殺意に満ちた群衆をキリストのように執り成し、祈り、美しい平和の内に天に凱旋した。(使徒7:54-60)
彼に微塵の絶望も憎しみも悲嘆も無く、世のものならぬ平安に満たされつつ、眠りにつけたのは、なぜか。
それは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)
世の中の人々、あるいは、呪われてしまった自然界が、殺意に燃えて私達を飲み込もうとする事があるかもしれない。そのような状況でもステパノのような平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
キリストの愛と守りは、生も死も超えている。死も、命も、御使いも、支配する者も、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできない。(ローマ8:39)

もし私達が地上で身勝手に歩み、主イエスを無視して日々を送るなら、その分だけそこがほころびとなり、いざ天に召された時、その部分は焼きつくされ、僅かにキリストと歩んだ部分しか残らない。(1コリ3:11-15)
キリストと共に歩み、キリストにあって何かを行う時、私達の人生という織物は、キリストにあって織りなされ、それは「聖徒の正しい行い」という清い衣として栄光の内に永遠に残されるのであり、そして多くの聖徒達によって紡がれた織物が完成する時、キリストの花嫁の光り輝く衣装が完成し、花嫁として迎えられるのだ。

今や彼女は、キリストの花嫁として迎え入れられ、目の涙をすっかりぬぐい取られ、全く新しいからだを着せられ、イエス様の懐に抱かれ、安息している。(黙示録21:1-7) そして彼女のように、天では多くの信仰の先人達が、私達の地上での歩みを応援し、執り成し、天の栄光ある御国へ入れられる日を待っている。
「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1-2)
今、地上に残されている私達も、信仰の先人達に続き、イエスから目を離さず、イエスと共に歩み、「正しい行い」という永遠の衣を、共に地上でしっかりと紡いでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
posted by リチャード at 06:28| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月27日

肉と御霊、どちらを歩むか(ローマ8:5-17)

肉と御霊、どちらを歩むか(ローマ8:5-17)
引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1307

肉によって歩むか、それとも御霊によって歩むかによって、全く別の「永遠」が待っている。
まず、肉によって歩む人の歩んだ結果の実は、ガラテヤ5章の19〜21節にある通りである。
その人は、人の道を踏み外した快楽を求め、神でないものを神として拝み、自分の方向性を阻む人に対して争いを起こし、党派を組んで分裂を促すような行動パタンがあり、礼拝や賛美などの聖なる事に、何の意欲も感動も無いが、遊興や飲み騒ぐなど、世の事に関してはとたんに目を輝かせる性質がある。
「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:6-7)
肉にある人は、どう頑張っても、神の律法に服従できず、むしろ聖徒たちの歩みを邪魔する。
彼らは聖徒の交わりの中にいても、御言葉や礼拝の恵みの喜ばしさを、理解できず、むしろ、世のうわさ話や趣味享楽の話題によって聖なる雰囲気を、俗なる雰囲気で上塗りしようとし、自己栄光化を促し、妬みや嫉妬に促され、聖徒の交わりを分裂へと引きずり込み、肉のリストにある実を結ばせるのみである。

肉に従って歩む人は奴隷であり、やりたくない事ばかりやらされるが、御霊に導かれるなら、神の子である。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(ローマ8:14-15)
肉の実ばかりを結んでどうしようもない、という人、そこから離れたい、という人は、肉によって歩む事を止め、御霊によって歩む事を始めれば良いわけである。
一体どうしたら御霊が与えられるのか。どうしたら聖霊に満たされるのか。それは、意思決定の問題である。
「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」(ローマ6:12) さて、この御言葉から、私達の死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、情欲に従わせるか、従わせないかは、誰に責任があるだろうか?当然、私達の側にある。
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)この御言葉からも、御霊によって歩む事は、私達の側の責任である事が明白である。
御霊に従って歩むには、多少の努力が必要である。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・とすればなおのこと、天の父が、求める人達に、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)
ただ口を開けて待っていれば、自動的に御霊が注がれる、と思ったら、間違いである。
求め、探し、叩く事は、骨折れる事だが、自分の肉のやりたい事を降ろし、主の故に骨折り、昼夜となく主に祈り求める聖徒に、主は聖霊を与えて下さらない事はない。
肉体や精神を鍛錬して御霊の実を結ばせようとする「がんばり」は、お門違いである。御霊抜きにして、いくら頑張っても、ムダである。なぜなら、肉は神に服従できず、反抗する、と書いてあるからである。
肉のがんばりを捨て、御霊によって歩む事を選択し、聖霊が与えられるよう、求め、探し、叩く事である。

御霊に従って歩むキリスト者は、ガラテヤ5章22〜23節にある御霊の実を結んでいく。
生活は喜びに溢れ、不安ではなく平安に満たされ、自分を制し、寛容さや親切さに満ちた柔和な人となり、悪意ではなく善意によって物事を判断し、誠実な人として人々から尊敬され、好かれ、もっとこの人と付き合いたいと思われるようになって行く。人を愛し、人々はその愛に感化され、愛が広がるようになっていく。

御霊に導かれるなら、神の子供であり(ローマ8:14)、もはや奴隷ではなく「子」とする霊を受けたのだ。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
神の子にふさわしいたしなみを身につけ、聖なる品性を纏い、御霊の実を豊かに結ばせる、豊かな人生を生きていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
posted by リチャード at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月11日

限られた時の合間に(伝道者の書3:1-8)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1189

限られた時の合間に(伝道者の書3:1-8)

時間とは、時(とき)の間(ま)と書くが、限られた時の合間に何をするかによって、永遠の行き先が決まる。

時間の合間は「間合い」と呼び、時間的間合いの他に、空間的間合い、心理的間合いもある。

武道において、この間合いは無視してはならない大切な要素で、間合いの取り方が下手は人は負け、惨めな結果になってしまうが、それは武道に限らず、人間関係や人生においても、そうである。

自分が剣で相手が槍なのに、自分の剣の間合いで戦いを仕掛けるなら、必ず負けてしまうように、相手のバックグラウンドを考慮せず、いつも自分のペースで望む人は、負け続け、みじめになり続けてしまう。

親しくもない相手に初対面から間合いを詰めすぎて馴れ馴れしく接するなら怒りを買ってしまう。かといって、親しくすべき相手に遠慮し過ぎて、間合いを遠ざけて しまうのも、また良くない。

ようするに、自分の固定概念を捨て、相手をよく見た上で、自分との関係(間合い)を考え、相手に接することが大事である。そして間合いは時間と共に流動的
に変化するもので、それをうまく見極めてやりくりする人は、必ず成功する。このように、武道や人間関係にいおいても、自分を降ろし、相手を良く見極めて対
応できる人は成功するが、ただ、私達キリスト者が最も注目し大切にすべきは、神の時、神との関係である。



皆さんは主イエス様と相対する時、正しい位置関係、正しい間合いを取っているだろうか。主との正しい位置関係とは、常に主が上であり、自分は常に下。主が
先であり、自分は後である。自分の”命”(プシュケー:思い、意思、感情)を日々、主の御前に捨て、自分の十字架を負って主に従うなら、その”命”を得る
が、主の御前にあくまで自分の思い、意思、感情を手放さないなら、それを失ってしまう。(ルカ9:23-25)

主との間合いは、私達の霊的成長の度合いによって変わってくる。

はじめ救われた時のイエス様と間合いは、先生と生徒、主人と僕の関係(ヨハネ13:12-17)だが、主の命じる通り行うなら、一歩んで「友」の関係にな
り(ヨハネ15:14)、友の関係になるなら、ただ命じられて行うというのではなく、友なる主の望んでおられる事を自ら汲み取り、心からその事をしたい、
と思うようになる。

さらに優れた間合いは、「兄弟」の関係である(ヨハネ20:17)が、兄弟の関係になるには、ヨハネ15章と20章の間の出来事、すなわち十字架の経験が必要であり、十字架の経験とは、自分の”命”(プシュケー:思い、意思、感情)を日々、主の御前に捨てる事である。

主とより親しい関係に入りたいのなら、まず自分を捨てる所から、である。



「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道者の書3:1)

スポーツや戦いで名場面と言われるものは大体、時機に叶った時に時機に叶った事をする場面である。

時機に叶った攻撃は、大勝利をもたらす。例えこちらが劣勢であっても、時機を突けば勝つことは可能だ。

神のなさる事が美しいと感じるのは、神がなさる事は全て、時に叶っているからである。(伝道者の書3:11)

時に叶っていない事をするのは、美しくない。美しくない人とは、為すべき時にそれをせず、いつも自分流に、自分の好き勝手な事をする人で、その人は大体において敗北し、不幸になってしまう。

サウル王は待つべき時に待たず、いけにえを捧げてはならぬ時に捧げ、食事させるべき時に断食を強いるような「時に叶っていない事をする」達人(1サムエル
13−14章)だが、ようするに、自分の時、自分のやり方を、人や神に押し付けるような「身勝手な礼拝」は不幸をもたらし、「美しくなさ」を周囲に振りま
くのみだ。



皆さんは、主の時を見極めているだろうか。主の時とはすなわち、永遠の中で今しかない「今」である。

今は恵みの時、救いの時である。その今、自分を捨てて主を第一としているだろうか。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。生まれる予定日はあっても、死ぬ日はいつか分からない。

しかし確実に言えるのは、「きょう」の「今」時点、わたしもあなたも生きている、という事である。

「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル
3:13)「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(同15節)

恵みの時、救いの日に、主の御声に聞き従い、きょう、と言われている間に互いに励まし合って、共に御国への歩みを進めていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
posted by リチャード at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月04日

人とは何者なのでしょう(詩篇8篇)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1179
人とは何者なのでしょう(詩篇8篇)

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただ一人死の無い方で、近づく事もできない光の中に住まわれる。誰一人、彼をじっと見、知り、経験し、理解し尽くす事は、できない。(1テモテ6:13-16)
イザヤは高く上げられた御座に座しておられる主を見、セラフィムが賛美しているのを見た。(イザヤ6章)
神はあまりに大きく、御使いの賛美は雷よりも大きく、あまりに聖であり、神殿が揺らぐほどであった。
それに引き換え、私達人間は、あまりに小さく、はかなく、罪に汚れており、神の聖なるご性質に人が触れるなら、ただちに死ぬのみである。預言者イザヤは神の聖なるご性質を見、自分の滅びを確信し絶望した。
しかし、セラフィムの一人が祭壇の燃え盛る炭を取って来てイザヤの唇に触れ、不義を除き罪を贖われた。
人間の唇から出てくるもの、それが人を汚すのである。(マルコ15:18)
イザヤは「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、自らの唇で「私を遣わしてください」と言い、それで主は、御旨を預言者に伝えられた。(イザヤ6:8)
神は罪ある人を清め、その自主性に委ねて同意をわざわざ得た上で、人を用いられ、御業を実行される。
主はなぜ、弱く小さく、罪深い人間を、わざわざ清めて用いられるのか。なぜそこまで人を重要視するのか。
神が人の手を借りるよりも、万軍の主ご自身が指を動かすだけで、御業が確実に成るのに。

人とは一体、何者なのだろうか。神がこれほどまでに、目を留められるとは。
神は愛(アガペー)なるご性質のお方であり、その愛で、人を愛されたから。としか言えない。
アガペーの「全てを捧げ尽くす愛」は、四百年以上前の宣教師達は「ご大切」と訳し、「愛」を使う事を望まなかった。なぜなら愛(アイ)という言葉は、自分の欲望を充たそうとする心を指す、悪い意味もあったからだ。
神は、人をただ大切にし、与え、捧げ尽くす。ただ人を赦し、忍耐し、期待する。
「神のご大切は、私達に対してマニフェスト(表明)された。神が彼のたった一人の子を世に贈られた事によって。それは、彼を通じて、私達が生きるために。 ここに、ご大切がある。私達が神を大切にしたのではなく、彼が私達を大切にされ、私達の罪をなだめる為に、彼の子を贈られた。」(1ヨハネ4:9-10 私訳)
神のひとりごが、被造物のために、私達のために、なだめの供え物となって天から降りて来られた。それは私達が、生きるために。そんなにも素晴らしいものを受けられるとは、私達人間は一体、何者なのだろうか。

一つ確かに言える事は、神は人間を、こよなく大切にしておられる、という事。
人は元来、神のかたちに創造され、神の息吹が鼻に吹きこまれた。
しかしサタンの欺きのために、いのちによって生きる道を選ばず、善悪知識によって生きる道を選んでしまい、人にはもはや神の息吹が留まらず、自らの罪の悲惨さ故に、死へと落ちて行く有様となってしまった。
憐れみ深い神は降りてこられ、そのボロボロとなってしまった人間性を回復するために、御子イエス・キリストを遣わし、敢えて御子を、はかなく弱い「人」の姿を取らせた程に 、神は「人」を、大切にされたのだ。
人(肉体)として来られたキリストを、あえて否定する者は、反キリストの霊によるものである。(1ヨハネ4:2)
こんなにも尊い救いを、気高く崇高な「ご大切」を、どうしてないがしろにして良いものだろうか。
「神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。」(ヘブル10:29)
神は万事を益とする(ローマ8:28)、それは有名な御言葉であるが、それは、御子のかたちに似た者とするためだ。(同29節) 神が万事を益として下さる事の最終目標は、人を御子のかたちにする事。
「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」(同30節)
神が人を創造された当初、人は神の似姿として、栄光に満ち満ちていた。
そこをサタンは、罪と汚れへと堕させ、死と呪いの悲惨な有様へと貶めてしまった。神は、地に落ちてボロボロになってしまった人間性を回復させ、栄光化するために、敢えてキリストを人として世に遣わされた。
私達信じる者は、栄光化された創世当初の人間性を、キリストによって得たのである。私達はただそれを信仰によっていただき、キリストに似た者として喜び、楽しみ、栄光の内を歩むのみである。
posted by リチャード at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月29日

働き人の心構え(使徒20:17-38)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1168

働き人の心構え(使徒20:17-38)

第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

第二礼拝・説教音声:右クリックで保存

週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存


パウロはエペソに三年間留まって福音を伝え、教会や聖徒達を養い育成したが、ただならぬ騒動に遭い(使徒19:23-41)、エペソから離れ、当初のビジョン通りローマに行くべく、一旦エルサレムに戻る事にした。

パウロがエルサレムに上ろうとする時、聖霊によって捕縛と苦しみが示されていたため、もはや再び生きてエペソの地を踏む事は無いだろう、愛する彼らの顔を
見ることも無くなるだろう、と覚悟し、彼がミレトというエペソから48kmの港町に着いた時、エペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。

使徒20章17節以降は、パウロのエペソの人達に対する今生最後のメッセージであり、エペソの愛する聖徒達にどのように働いて来たか、また、これから彼ら
は何に気をつけ、どのようになって行くべきかが示されており、そしてそれは、キリストの体を建て上げる働きをする全ての働き人が心に留め置くべき内容であ
る。



「わたしが、アジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存じである。」(18節) パウロは話の切り出しに、自分は最初からどのような行いを実践し、彼らに身をもって示して来たかを思い起こさせた。

神の国の働き人は、パウロのように、口先での指示よりもむしろ行動で示して行くべきである。彼は初めの日から謙遜の限りを尽くし、涙をもって、ユダヤ人の陰謀という試練でも忠実に主に仕えて来た。(19節)

そして彼がユダヤ人にもギリシヤ人にも強く勧めて来た事は、神に対する悔改めと、主イエスに対する信仰とである。(21節) 悔い改めと主イエスへの信仰のすすめ無き教会は、世の集まりと何ら変りない。

パウロは聖霊によって縛られ、具体的には分からないが確実に苦しみが待っているエルサレムへ行こうとしていた。(22-24節) 神の働き人は、聖霊の導
きに従って歩むものであり、行く先に確実に困難が待ち受けていようとも、たとえそれで命を落とすような事になっても、本望であり満足である。

皆さんが成そうとしている、神の働きの先に、たとえ迫害や人の拒絶があるとしても、平安はあるだろうか。



「だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。」(26-27節)

宣教者の責任は、神の御心を余す所なく伝えた時に、終わる。

キリスト者は、慈善活動や人々と和合する事に心砕くより、むしろ、神の御心を余すところ無く伝えるべきである。その中には、罪の指摘や、死後の裁きの存在など、人々が嫌がるような厳しい事も含まれる。

「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」(28節)

神の教会には、神の御子の血の代価がつけられている。御子キリストのいのちと、教会は、等価交換されたのである。その教会を牧する事が、どれほど尊い奉仕であるか、考えた事があるだろうか。

それ故、教会の監督者になりたいと思う人、聖徒達の上に立ちたいと思う人は全て、まず自分自身に気をつけ、また、群れ全体に心して気を配るべきである。

パウロが去っていった後、狂暴な狼が群れに入り込み、荒らしまわる事をパウロは知っていた。それだから彼は切々と訴えた。目をさましている事、夜昼涙と共に訓戒し続けてきた事に留まる事を。(29-31節)



「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」(32節)

救いは最終的に冷酷なまでの自己責任で、大好きな誰かを天国に行かせるための取引は一切出来ない。

働き人に出来る最大の事は、御言葉と神の御旨を余す所なく伝え、それに留まるよう勧め戒める事である。

エペソの人にとっても、パウロにとっても、互いの今生の別れは、ある日突然に来た。

パウロは昼も夜も涙を流しつつエペソの人達のために心砕き、教え、ケアして来たが、働き人の皆さんはそれをして来ただろうか。また、皆さんにとってパウロに当たる人が、ある日突然いなくなっても、皆さんは御言葉にしっかり留まり続けられるだろうか。

御言葉なるイエス様にしっかりとつながり続け、豊かな実を結ばせ続ける皆さんでありますように。


posted by リチャード at 06:16| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月16日

有用な社会人クリスチャン夫婦(1コリント2:1-5)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1146

有用な社会人クリスチャン夫婦(1コリント2:1-5)

パウロは、コリントに来る前の伝道地・アテネでは、当時最高の文化人達を相手に、由緒ある評議所アレオパゴスで、すぐれた言葉や知恵を用いて、雄弁に福音を説明しようとしたのに、死者の復活の話になった途端、あざ笑われ、宣教は不毛な結果に終わってしまった。(使徒17:22-34)
これに懲りたパウロは、それ以降、単純に主イエスの十字架と復活の福音を語るようになった。
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2:1-2)

アテネを去ったパウロは、コリントへ来た時、イタリヤから来た天幕造りの夫婦・アクラとプリスキラに出会い、パウロも同業者だったため、彼らの家に住み込みで働きつつ、安息日には会堂で福音を伝える働きをした。
コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や弁論が盛んで、色々な娯楽もあり、また、退廃的な生活を「コリント風」と呼ぶ程、道徳的に退廃しており、彼らの目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
そんな中でなぜ、すぐれた言葉や知恵を用いずに、大勢の人達がイエスを信じ、救いへ導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそ、神の御霊と神の御力の現われだからである。(1コリント2:4-5)

アクラとプリスキラは、天幕造りの仕事をしながら、十字架の福音のみで次々と人々を救いへと導いて行くパウロを間近で見、交わり、一緒に働く事によって、有用な社会人クリスチャン夫婦へと成長して行った。
この夫婦は一年半コリントでパウロと寝食を共にし、パウロがシリヤへ出帆した時も、エペソまで同行した。
彼らはこのエペソに留まって生活したが、そこでも彼らは有用な働きをする。(使徒18:24-28)
ある時、アポロという雄弁で聖書に通じた伝道者がエペソに来た。
彼は会堂でイエスのことを正確に語り、教えたのだが、彼はヨハネのバプテスマしか知らなかった。
「それをプリスキラとアクラとが聞いて、彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた。」(使徒18:26)
一介の社会人夫婦が、雄弁で聖書に詳しいフルタイム献身者に、神の道を詳しく解き明かしたのである。
しかも、ここの聖徒達は、アポロが行きたがっていたアカヤの聖徒達に手紙を書く事で彼を手助けし、彼をアカヤへと送り出し、それによって、かの地で信者になっていた人達の、大いなる励ましとなったのだ。

アクラプリスキラ夫婦は、天幕造りという仕事を持っていたため、アポロほど、主のミニストリーに時間を捧げられなかったし、また、アポロほど雄弁でもなく、聖書に通じていた訳でもなかったかもしれない。
それでも、この夫婦が神の道について正しく説き聞かせられ、また、躊躇事無くそれが出来る勇気があったのは、パウロと一緒にコリントにいた一年半の間、すぐれた言葉や知恵、雄弁さなどに依らない、単純な「十字架につけられたキリスト」の福音に、どれほど力があったかを、十分体験していたからである。
「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」(1コリ2:4-5)

神の働きは、何も、パウロやアポロといったフルタイム伝道者だけのものではない。
彼らのようなフルタイム献身者が活動出来るのは、背後に多くの「アクラとプリスキラ」がいるからである。
この夫婦のようになるには、十字架の福音が欠かせない。これを抜きにして、雄弁さや知恵深さだけ追求しても、アテネでのように、笑われて終わりである。しかし、十字架につけられたキリストの福音に、ひたされ続けるなら、いかに一社会人夫婦であっても、下手なフルタイム献身者よりも有用な働きをするのである。
現代日本は、色々な意味で当時のコリントに負けず劣らぬが、それだからこそ必要なのは、純粋な福音、すなわち十字架につけられたキリスト、この御方であって、すぐれた言葉や知恵でも、雄弁さでもない。
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(2コリント2:17)
コリントのようなこの国においても、アクラとプリスキラ夫婦のように純粋なキリストの十字架の福音に養われ、神の働きを大いに為す皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
posted by リチャード at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月09日

つながれていない神のことば(使徒16:16-34)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1135

つながれていない神のことば(使徒16:16-34)
――――――

パウロ達は、遠い道のりをさ迷った挙句、やっとピリピへと導かれ、そこでささやかな人数のいのちの刈り取りがあって、ほっとしたのも束の間、現地の人達に訴えられ、鞭打たれ、牢屋に入れられてしまった。

なぜ告訴人達は、パウロ達を訴えたのか。それは、もうける望みが無くなったから(19節)、すなわち、彼らの奴隷である占い女から、占いの霊を追い出したためである。

女は占いの霊に縛られ、占いで得たお金は、霊障のリスクを負わない主人たちに搾取される状態だった。

パウロの取った行動は彼女にとっては救いだったが、彼女の上司達のビジネスには損失であった。

今の時代でも、多くの日本人達が、時代の霊に引きずり回され、働いても働いても主人たちに中間マージンを搾取され、子育てやマイホーム資金もままならない人達が多いが、もし彼らが、主人たちが強いる労働を止め、彼ららしい生き方をするようになりだすとしたら、その主人たちには当然、望ましくない事である。

福音が伝わる所には自由があり、奴隷開放があるが、それが気に食わないという人達もおり、彼らが宣教者たちを迫害したり殺したり、奴隷にまつわり戦争を起こしたりするのは、歴史で見てきた通りである。


「それで二人に何度もむちを加えさせた後、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。」(23節)

もし私達も、もし、いのちのために起こした行動が災いで返って来てしまったら、何を思うだろう。

パウロは幾度も鞭打ちや牢獄、迫害に遭ったのに、それでもなぜ福音を伝えるのを止めなかったのか?

それは、無理してヤル気を喚起したからではなく、福音そのものには圧倒的ないのちの力があり、死はいのちに、病は健やかに、貧しさは豊かさに、取って替えられるからである。

福音ほど「おトク」な話は世のどこにも無く、伝えなければ災いだとさえ思える程、良き知らせだからである。


「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」(25節) この25節以降、なぜそうなるのか?と問いたくなるような事ばかりが続く。

なぜ打ち傷だらけで鎖に繋がれているのに、賛美を歌えるのか。なぜ悪人達が閉じ込められている獄舎で夜中に賛美しても、誰も文句も言わず聞き入るのか。なぜ賛美すると地震が起き、皆の鎖が解けるのか。

そして、鎖が解けて扉が開いたのに、なぜ逃げる人が一人もいなかったのか。また、なぜ看守は自殺しようとし、看守はなぜ、つい先まで自分が見張っていた囚人パウロにひれ伏し「先生がた・・・」と言うのだろう。

恐らくパウロ達は地震までに、囚人たちが一晩で変化するような行動を、起こしていたのではなかろうか。

すなわちパウロ達は、ぶち込まれた牢屋で、看守長にも聞こえるように福音を伝えていたのではなかろうか。

イエス様はどんなお方で、信じた者がこんなに救われ、自分達もイエス様にどんなに守られて来たのかを。

賛美は邪悪な者にはノイズだが、救われた者には、どんなノイズのような賛美でも、心揺さぶられる。

賛美の内に地震が起こり、鎖も解けてしまった。普通の悪人なら、ここぞとばかりに逃げるはずなのに、一人も逃げなかった、という事は、既に牢屋の皆は、圧倒的な主の力と愛に打たれていたのではなかろうか。


「パウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。」(28節)

当時のローマの法律では、囚人が逃げてしまった場合、看守はその囚人の罰を受けなくてはならない、という決まりがあった。だから、囚人が全て逃げてしまったと思った時、絶望して自殺しようとしたのだ。

彼は牢獄を見張っていたようで、実は、ローマの制度という牢獄に縛られていたのだ。

現代も当時と変わる事なく、空中の権威を持つ支配者達によって学校や会社、家庭も搾取され、縛られ、どうあがいても幸せになれない「見えない牢獄」にあえいで、自殺しようとしている人も、沢山いる。

福音は、有形無形の監獄にいる人を全て、救いへと導く。

パウロが獄中に居ながらにして、獄の中をいのちに満たしたように、私達も、救いの御言葉を伝える事によって、有形無形の牢獄に居ながらにして、そこをいのちで満たす働きが出来るのだ。

それは永遠の栄誉をもたらす、いのちの務めであり、それだからパウロは、福音伝道が止められないのだ。

獄から出るのが救いではない。イエス様こそ、獄や鞭、死さえも、決して無効には出来ない救いである。

イエス様を知れば知る程、伝えたくて仕方なり、たとい伝えなくても、普段の趣が、イエス様を証してしまう。

現代日本の全て監獄に囚われている人達を、一人でも多くイエスへと救い出す皆さんでありますように!
posted by リチャード at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月30日

忍耐して蒔き続けよ(使徒16:6-15)

参照元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1123

忍耐して蒔き続けよ(使徒16:6-15)
第一礼拝・礼拝全体音声
:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声
:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要
:右クリックで保存


若き助け手テモテを仲間に加えたパウロ達は、いざ多くのいのちを刈り取らん、と、アジヤへ繰り出して行ったが、あちらに行っては御霊に阻まれ、こちらに行っても阻まれ、そうしてはるばるトロアスまで来た。

使徒16章6-8節の、わずか3節で記されている行程は、千キロは超えているはずで、交通手段の発達していない当時としては、途方も無い距離である。

行く所行く所、御霊によって阻まれ、たましいの刈り取りができず、思っていたようなミニストリーもうまく行かず、行くべき所も長い間示されない働き人達には、どれほどの苦労、落胆、苛立ちがあった事だろう。



パウロはアジアでの宣教、魂の刈り取りに情熱を持っていたが、実は、それは主の御心とは違う所だった。

ある夜、主から示された幻があり、その中で一人のマケドニヤ人が現れ、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願していた。(9節)

耕されていない畑に種を蒔く働きは不毛であり、救われて欲しいという懇願が無い者を救う事は、難しい。

人の目には見えないが、主が示す地こそいのちの穂が熟し、働き手による刈り入れを待っているのである。

導きが示されたなら、握りしめていた自分のビジョンを捨てる事に、躊躇すべきではない。

彼らは早速、トロアスから船出し、ネアポリスからマケドニヤのこの地方第一の都市、ピリピへと行った。

しかし、そこにはユダヤの会堂は無かった。ユダヤの会堂が立つには最低10人のユダヤ人男子が必要で、ピリピには、主を敬うユダヤ人男子は10人もいなかった、という事である。

会堂が無い場合、神を敬う人達は、川岸の適当な場所(身体を清める等に適すため)で安息日の礼拝を行う。パウロ達はなんとかその場所を見つけたものの、そこには、女達しか集まって来なかった。

パウロ達にしてみれば、ピリピに至るまで千キロ以上もさ迷い歩いた挙句、やっと到着したその所は、会堂も無く、祈り場に集うのも女達だけという霊的僻地で、がっかり続きだったかもしれない。

しかし主には、人知を遥かに超えたご計画があり、主の時が満ちた時、主は働き人を用いて実行される。



パウロがそこで福音を語った時、主は、テアテラ市の紫布の商人でルデヤという神を敬う婦人の心を開き、彼女もその家族も共にバプテスマを受けた。『その
時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。』(使
16:14-15)

パウロ達は、ルステラから千キロ以上の道のりと労苦の末、やっと、たましいの刈り取りが出来、働き人達が温かいもてなしを受け、安息できる「家の教会」が、この時建った。

この「ピリピ教会」は、パウロにとって実に思い入れのある教会となり(ピリピ1:1-6)、後にこの教会は成長して、監督や執事も立てられ、パウロの働きのために物質的援助をするまでに成長した。(ピリピ4:14-20)



ピリピで教会が建つまでのミニストリーは、多くの苦労と落胆、苛立ちがあったが、実は、パウロ達がアジヤからヨーロッパに渡り、ピリピに教会を設立した事は、後の歴史を大きく揺るがす重要な出来事である。

ヨーロッパ。その後、福音が大いに広められ栄えた地域であり、キリスト教抜きに、その歴史は語れない。

ピレンヌという歴史学者は、ルデヤの家の教会が建った瞬間、ヨーロッパ文明社会そのものが始まった、とさえ言っている。このささやかな、ルデヤの家の教会こそ、ヨーロッパ文明発祥の地となったのだ。

ノアは「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」(創世記9:27)と預言していたが、キリスト以降、ヤペテの子孫(白色人種)に福音が最も普及し、結果、セム(ユダヤ)の恩恵を最も受けた民族となった。

「お前は聞いたことがないのか/はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを/わたしは今実現させた。」(イザヤ37:26)

私達のビジョンと、主のビジョンが違っていると分かったら、すぐに自分の方法を捨て、主に従うべきである。

もしすぐに示しが与えられないとしても、忍耐強く御心を求め続けるなら、いずれ私達が行くべきマケドニヤへと導かれ、建てるべきピリピ教会が建ち、後にはヨーロッパの救いへと発展するのである。

私達が建てるべき「ピリピ教会」は、何だろうか。救うべき「マケドニア人」は、どこにいるだろうか。

主に導きを求め、目に見える刈り取りが見えなくても忍耐して導きに従い続け、後には、委ねられた「ピリピ教会」を建て、「マケドニア人」を救う皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!


posted by リチャード at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。