2014年04月13日

アダムとエバ - 覆い隠しと訴えの始まり(創世記3:6-13)


アダムとエバ - 覆い隠しと訴えの始まり(創世記3:6-13)
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『すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。』(創世記3:7)
善悪の実を食べたアダムとエバは、善悪判断の目が開かれ、そこで真っ先にした事は、自分を見、裸である事を認知し、それを「良くない」と判断して、その見られたくない部分を、手頃な物で覆い隠した事だった。
そして、主なる神の歩まれる音を聞くと、恐れ、全てを見ておられる主の御顔を避けるために、園の木の間に隠れるという、実に”あさって”な事をするようになった。
ダチョウは、目の前に猛獣が現れると、砂の中に頭を埋めるらしい。そうするとダチョウの目には猛獣が見えなくなるため、猛獣から逃げおおせた、と、思い込んでいるのだが、猛獣の前には、相変わらず頭だけ砂に突っ込んだ大きな図体を晒し続けているだけなのだ。
この時のアダムとエバは、このダチョウと同じ愚かさを演じている。そして、神はいないと言っている人も、あるいは、神はいないと自らに言い聞かせ、好き放題に罪を飲み食いしている人も、同様である。

『あなたが裸であるのを誰が知らせたのか。食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか』
神は、分からないから質問したのではない。神は全能だから、何でも知っておられる。
神が敢えて聞かれたのは、自分の事を、自分の口で告白させるためである。(マルコ10:36,51)
彼は、自分が行った事は一切言わず、他人が行った事を指摘して、フォーカスをずらした。
『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。』
この言葉の中には、自分が悪かったという告白は一片も無く、神様が自分のあばら骨から造って下さった女のせいにし、ひいては、女を自分の所に連れてきて下さった神様にも、責任の一端があるように言った。
女もまた、自分が悪かったという告白をせず、男になぜ食べさせたのかも言わず、ただ蛇のせいにした。
他人の欠点や罪をあら捜しばかりして、それを糾弾する人がいる。彼らはなぜそれをするのか。
それは、他人の罪や欠点にフォーカスを向けさせる事で、自分から視線を離させ、自分の罪を覆い隠したいからだ。だから、やましさのある人ほど、他人の欠点 や罪をあら捜しばかりするものだ。「先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。」(箴 18:17)

もしアダムとエバが、あの時、自分の罪を告白し、主に赦しを請い願っていたら、どうなっていただろうか。
主のご性質から、彼らは赦されていたのではないか、と、私は思う。なぜなら、主は赦しに富みたもうお方であり、自分の罪を素直に認めたダビデの罪を、神は罪を見過ごしてくださったからだ。
放蕩息子も、罪を告白した時、父は罪を不問にし、肥えた子牛をほふり、子として元の地位に戻してくれた。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(1ヨハネ1:9)
だから、私達が罪を指摘された時、ただそれを認め、悔い改めて赦しを乞うのみである。
自分の罪を告白し、悔い改めるなら、主は赦してくださる。しかし、自分を棚に上げ、「兄弟姉妹を中傷する」という、サタンと同じ座に着く者は、アダムとエバのように呪われてしまう。
ゼカリヤ3章には、神の裁きの座にノコノコと来て立ち、大祭司ヨシュアをを罪定めしようとするサタンの様子が書かれているが、ぬけぬけと神の裁きの座に立って、訴えようとする者は、逆に神に訴えられるのだ。

アダムとエバは、自分の罪を認めず、告白せず、他人あるいは神のせいにして呪いを受け、エデンの園から追い出されてしまった。もし彼らが、あの時、罪を認め、告白し、悔い改めていたなら、どうなっていたか。
それは起きていない事なので、正確には分からないし、推測する以外に無いが、一つ確かな事は、皆さんは、主から罪を示されたのであれば、それを認め、主に赦しを乞い、悔い改めるなら、赦されるのである。
そうではなく、他の人(愛すべき妻や夫、両親、兄弟姉妹、働き人、そして、神ご自身)を糾弾して、自分の罪を隠そうとするなら、呪いを受け、エデン(「歓喜の場所」という意味」)からは追い出されてしまうのだ。
ダビデのように、罪が指摘されたら素直に認め、主に罪を赦していただき、神と聖徒との光の交わりを、常に保って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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2014年02月02日

蛇 - 悪魔 - の誘惑の徹底解剖 (創世記3:1-5)

蛇 - 悪魔 - の誘惑の徹底解剖 (創世記3:1-5)
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参照元: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1793


「主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」(創3:1) この蛇こそ、天から投げ落とされた、全人類を惑わす者、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる、あの古い蛇(黙12:9)である。

悪魔の「魔」、その漢字は、广(まだれ:家や庭を意味)の中に、二本の木があり、その間に「鬼」と書くように、悪魔の誘惑の特徴は、いかに人をいのちの木
から遠ざけ、善悪の木に向かわせるか、という点にあり、御言葉の肝心な所を抜いたり、不純物を混ぜたりして、人に不安の波紋を起こさせ、御言葉否定へと導
く。

神が言われたのは、@「園のどの木からも」 A「思いのまま食べてよい」、B「しかし善悪の知識の木からは」 C「取って食べてはならない」だった。(創世記2:16-17)

しかし悪魔であるこの古い蛇は、『@「園にあるどの木からも」 C「取って食べてはならない」と、ほんとうに神が言われたのですか』(創3:1)、と言っており、肝心の、AとBを除いてしまっている。

蛇は、神様から与えられているあらゆる良き祝福には、全く言及せず、たった一つのしてはならない事にクローズアップさせ、あたかも神は、我々に制限を大きく課しているかのような錯覚を、吹き込ませた。

御言葉をしっかり覚えていないと、容易に騙されてしまう。エバはその掻き乱しに、まんまと乗ってしまった。

皆さんも、エバのように、神様は我々を大きく制限し、良き物を出し惜しみしていると思っていないだろうか。



エバは「園にある木の実を食べてよいのです」と答えたが、「どの木からでも」「思いのまま」を省いている。

神様からのあらゆる豊かな恵みが縮小されてしまっており、さらに「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と続けた。

エバが「いけない」を3つも言った所に、神様は「いけない」を良く言うお方だという否定的認識を垣間見る。

皆さんも、エバのように、神様は「いけない」を良く言うお方だという思いに、曇らされていないだろうか。

もしそうなら、蛇は、皆さんの誘惑に成功し、神様からの、あらゆる豊かな恵みが、まんまと曇らされている。

神は「触れてはいけない」とは言っていなかった。エバとしては、神様をかばうつもりで、拡大解釈して言ったのだろうが、神様は、人間の力や思いつきによっ
て弁護されるようなお方ではない。神様はむしろ、人間が御言葉にしっかり留まり、多くの実を結ぶ事によってこそ、栄光をお受けになるのだ。(ヨハネ
15:7-8)

御言葉に人間的な解釈をつけ足しする事は、パリサイ派や律法学者の道であり、それは、ますます人を束縛し、人を御言葉の真理から遠ざけさせ、サタンを喜ばせる事である。



神様は「それ(善悪を知る知識の実)を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、エバの中では「死んではいけないから」と変換されており、「必ず死ぬ」という確信が揺らいでいるのも分かる。

私達がサタンに、心かき乱されるような事を言われた時、答えに急いて、口からでまかせを言ったり、御言葉に根拠の無い、自分なりの解釈を、ぽろっと言ってはならない。

サタンは、御言葉に根拠の無い解釈や、人間的な力・知恵など、これっぽちも怖くはない。

むしろ、御言葉に付け足したり、差し引いたりする事は、サタンの大好物で、さらに付け上がって来る。

エバの中に御言葉への確信がなく、付け足したり差し引いたりしたのを見たサタンは、今度は、御言葉の完全否定を吹きかけて来た。「蛇は女に言った。「決し
て死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3:4-5)

サタンの本質的な性質は、神を引きずり降ろし、自分が神のように高くなる事である(イザヤ14:12-15)。

それに対し、救いの道はその全く逆で、自分を降ろし、主を高くする事である。



私達が主とするべきお方は、唯一キリストのみ、土台とすべきは、自分の考えではなく、御言葉のみである。

主はサタンに試みられた時、御言葉によってを撥ね付けたように、私たちも、御言葉をそのまま、信仰を混ぜて宣言するなら、サタンはやがて去っていくのだ。

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)

御言葉をたっぷりと蓄え、サタンの策略を知って見極め、その手には乗らず、御言葉によって勝利し、信仰者として堂々と歩み、サタンからはむしろ分捕っていく皆さんでありますように!


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2014年01月26日

エバ - 女 - の成り立ち (創世記2:18-25)

エバ - 女 - の成り立ち (創世記2:18-25)
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引用元URL: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1784

「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
主が創られたものは、全て良かったが、一つの事を「良くない」と言われた。それは、人が一人でいる事だ。
そこで主は、彼のために「ふさわしい」「助け手」、すなわち、女を造る事にされた。
「ふさわしい(ネゲド)」という言葉は、向き合う者、ペアの一方、対応する同等のものを意味する。
また、旧約聖書で「助け手(エゼル)」という言葉は、そのほとんどの場合、人を助けて下さる神をあらわす言葉で、その「助け」が無ければどうしようもないような、重要な存在である。
つまり女は、男の重要な助け手(エゼル)として造られた。通常、エゼルの言葉が使われる多くの場合、エゼル(助け手)の側が上位であるが、男と女は互いに同等の命であり、互いは助け合い、不足を補いあうものである。『主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。』(1コリント11:11-12)

『人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。』(創世記2:20-22)
未婚の男女が、ふさわしい助け手を得る条件、それは、深い眠り、すなわち、死を通る必要がある。
結婚は人生の墓場だと良く言われるが、それはある意味正しい。独身時代は自分の思うがままに生き、あらゆる異性が、結婚相手になるかもしれない可能性があったが、結婚してからは、そうはいかない。
自分に対して死に、伴侶のために、そして新しく生まれるいのちのために生きるのでなければ、結婚生活は成り立たないが、自分に死ぬのであれば、結婚生活において、すぐれた命の喜びを見出す事になる。
そういうわけで、結婚のための第一条件は「自分に対して死ぬ」事である。
キリストもいのちを投げ出した事によって、助け主・聖霊が、私達に与えられるようになった。(ヨハネ16:7)

『そのとき、人は言った。「これこそ、ついに(今や、今度こそ)わたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。』(創世記2:23) 「これこそ、ついに(今や、今度こそ)」という言葉に、アダムが待ちに待っていたものが与えられ、大喜びしている様を見て取れる。
聖書に記録される人間の言葉は、骨の骨、肉の肉が現れた事を喜ぶ言葉である。
アダムは、動物たちに名前をつけて行く際、雄と雌のつがいが、産んで増えて行く様を見て、自分もパートナーを持ちたいと思っていた事だろう。そんな彼が、深く眠らされ、自分のあばら骨を元に、同じいのちを共有する「女」が造られ、彼が目覚めた時、その女が、彼の前に立ったのだ。
神は、アダムも含め全生物を全て、土のちりから創られたが、唯一例外がある。それは、女である。
女は、男の脇腹の骨を元に、同じ骨、同じ肉、同じいのちとして造られた。それで女は、男の脇腹の所が本来の居るべき場所であり、男も、女を同じいのちを共有するものとして尊敬すべきである。(1ペテロ3:7)

『それで人はその父と母を離れて、妻と「結び合い(くっついて離れない)」、一体(一つ肉)となるのである。』(創2:34) これは、男と女の結婚の事にとどまらない。夫と妻との関係は、キリストと教会の関係のひな形であり、パウロは、この奥義は偉大である、と言っている。(エペソ5:32)
そして結婚のための第二条件は、父母の庇護から離れて、一人立ちしている事である。(エペソ5:31-32)
男も女も、親の庇護から離れなくては、伴侶を苛立たせてしまうように、私達も、キリストの庇護に入ったからには、世という親元からは離れていなければならない。
キリストは第二のアダムであり(1コリント15:45)、教会はキリストの花嫁、第二のエバである。
キリストは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるために、いのちを投げ出され、激しい苦しみによって生み出された教会を見て満足された(イザヤ53:11)。そして、花婿が花嫁を喜ぶように、主は教会である私達を喜ばれるのだ。(イザヤ62:5)
皆さんは、こんなにも愛して下さったキリストに、ふさわしい助け手として、苦しみと喜びを共に受ける生き方をしているだろうか。主人であるイエス様の言うとおりにして、彼に養われる事を望んでいるだろうか。
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2013年09月01日

栄光の家系の女達 – ラハブ3 救いと滅びを永遠に分ける日(ヨシュア記6:15−25)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1593

ラハブは元々「遊女」だったが、同時に王族の女として、イエスの母の一人として、聖書は記している。
救いはただ、イエス(ユダヤ名「イエシュア」=ヨシュア=「神は救い」という意味)を、救い主とする事による。
イエス様を救い主とするなら、以前がいかに罪深く汚れていても、例外なく救われ、王族に加えられるのだ。
そして実際に救われるには、神の側から示された条件を「聞き」、それを実際に「行う」必要がある。
ラハブは、聞かされた事をすぐに「行い」、いつ来るとも知れぬ「かの日」が来るのを待った。
「かの日」とは、赤い印のある人には救いの日、印の無い人には滅びの日で、その日がいつかは、神のみが知っている。聞いた御言葉を信仰によって自分自身に結び付けず、いつまでも救いの行動を先延ばしにしたままにして、「かの日」を迎えてしまうのであれば、その人の永遠は、「滅び」として確定してしまう。
私達も、救いの御言葉を聞いた時、ラハブのように、すぐに信仰によって結び付けるなら、幸いである。

イエシュアの軍団は六日間、エリコの周りを回った。彼らに先立って進むのは契約の箱であり、その中には主の約束の御言葉が入っている。民も、契約の箱も、ものを言わない。ただ角笛の音だけが響いていた。
対してエリコは、神の軍が間近に迫っても頑なに城門を閉ざし、五日、六日と過ぎても行いを改なかった。
そしていよいよ、エリコに「かの日」が来た。
イエシュアの軍団がエリコの城壁を回って第七の日、契約の箱は七度回り、その七度目に、祭司たちが角笛を吹いた時、イエシュアは民に言った。「鬨(とき)の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。・・・ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした”使い”をかくまってくれたからである。」(6:16-17)
その時、窓に赤い印を結びつけて息を潜めていたラハブは、イエシュアの軍団の角笛と鬨の声を聞いた。
自分達のいる回りの城壁が、大音響を立てながら崩れ落ちたが、彼女達がいた一角だけは崩れなかった。
イエシュアの軍団が、剣を手に攻め寄せて来るのが、赤い印をつけたその窓から見えたが、しかし彼らは、自分達のいる家には手出しせず、その周りは全て攻め滅ぼした。
そして、彼女がかつてかくまった、あの二人の使いが来た。今度は、彼らが彼女たちをかくまう番となり、赤い印をつけた家の人全員を連れ出し、安全な所へと導いた。そしてエリコは滅ぼし尽くされ、赤い印の内でかくまわれていた人達は、滅びの向こう側へと渡り行き、遊女だったラハブは、栄光の家系に入った。

全世界にとっての「かの日」は来ようとしており、その日、エリコに起きた事と同じ事が起きる。
今、約束の御言葉の実現は、静かに近づき、その音づれを世界中は聞いている。
そして人々は、それでも心を頑なにして自分の行いを悔い改めようとしない人達と、悔い改めて主イエス(イエシュア)に立ち返り、その憐れみにすがって救いの印を受ける人とに、分かれている。
七人の御使いが、七つのラッパを吹き鳴らす度に、災いが降り、第七の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは崩壊し、全てが私達の主イエシュアのものとなる。(黙示11:15)
その日、人類が築きあげて来た全ての「城壁」は崩れ落ち、頑なに悔い改めなかった人達は、イエシュアの軍団に滅ぼされ、イエス様の赤い血にかくまわれていた人達、神の印を押されていた人達には、かつて彼らがもてなした御使いが迎えに来て、安全に天の御国へと導き、永遠の栄光の救いに入る。

イエス様が十字架上で流された赤い血潮、それが私達の救いのしるしである。
イエス様が十字架上で私達の身代わりとなって死に、私達を救って下さったという事を、信仰によって私達自身に結びつけ、そうして救いの印を私達につけるなら、私達も救われるのだ。
ラハブは、救いの条件は「赤い印を、自分の所に結びつける事」であると聞いて、それをすぐに行ったように、私達も今すぐにでも、イエス様を救い主として、救いを得るべきである。
救いの行動を先延ばしにしたりせず、聞いた御言葉をラハブのようにすぐに信仰によって結び付け、「かの日」には救いのしるしを掲げつつ迎え、滅びが決して届く事なく「救い」を永遠に確定する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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2013年08月29日

栄光の家系の女達 – タマル4 祝福を掴む執念(創世記38:27-30)


栄光の家系の女達 – タマル4 祝福を掴む執念(創世記38:27-30)

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世の中のお父さんとお母さんの馴れ初め話を聞くと、心和むものや、聞いていて嬉しくなる話は多いが、必ずしもそうでない場合もある。ユダとタマルと
いう父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。
(ルツ4:12)

いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。

イエス様を受けいれた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子となる全権が与えられた。

その人は、親の血統や肉欲は一切関係なく、ただ、神によって全く新しく生れたのである。(ヨハネ1:12)

では、タマルの子ペレツは、なぜ祝福の代名詞になったのか。その鍵は、祝福を掴む執念である。



『さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。』(創世記38:27)

助産婦は、最初に出てきた赤子の手に「こちらが長男だ」という印として、真っ赤な糸を結びつけたが、その子は、お母さんのお腹のほうが居心地良かったの
か、戻ってしまい、その間に、もう一方の子が先に生まれ出てきた。その、先に生まれてきた子はペレツ(割り込む)、手だけ先に出して、長男としての真っ赤
な印をつけられながらも、後から出て来て、長男ではなくなってしまった子は、ゼラフ(輝き)と名付けられた。

ゼラフも、手を引っ込めたりせず、そのまま長男として出ていれば、王族の家系を継ぐものとされていたものを、それを逃し、割り込んで先に生まれ出たペレツが長男とされ、このペレツから王族が出る事となった。

この事は、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。

ひと度、栄光の世界に一歩足を踏み入れ、祝福のしるしがつけられたのに、肉の中にいる事のほうを良しとし、その中へと引っ込んでしまうなら、その王族の家系の権利は別の人に奪われ、永遠に逃してしまう。

ヤコブの兄・エサウも、長子の権利を軽んじ、それを奪わんと虎視眈々と狙っていた弟によって、長子の権利も、祝福も、奪われてしまった。彼は、一杯の食物によって、長男の権利そのものを売ってしまった。

『一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受
け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』(ヘブル12:16-17)



御国が私達に向かって手を差し伸べている時、天国への道が開かれている時、臆病になってはならない。『臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を
行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙
21:7)

黙示録のこの箇所では、第二の死へと向かう筆頭は、「臆病者」で、その次が「信じない者」である。

なぜ、邪悪な「人殺し」とか、神を知らぬ「偶像礼拝者」を差し置いて、「おくびょう者」が筆頭なのか?

それは、御国に入るチャンスが与えられ、その前味わいまでしたのに、捨て去るべき以前の世と決別する段になって、おくびょうになり、捨てきれないからだ。

ポンテオ・ピラトをかわいそう、と言う向きもある。イエス様を敬う心を少し持っていたのだから、赦してあげればいいじゃないか、と。しかし、イエス様を敬
う心を持っていながらに、最後には臆病の故にイエス様を捨てて世に従ってしまう、これは、最初からイエス様に敵対していたパリサイ人達よりも、たちが悪
い。

なぜなら、イエス様が真理であり王の王であると知った上で、なお、拒否したからだ。



『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12) 神の国
の権利は、それを奪おうとする人が勝ち取り、自分は大丈夫だと安穏として肉に浸り続け、そこから動こうとしない人は、祝福の権利を奪われてしまう。

パリサイ人達は、ヨハネのバプテスマはどこから来たのか、と、イエス様から質問をされた時、人前で臆病になり、「わかりません」と答えた。そこで主は、あなたがたよりも取税人や遊女の方が、先に神の国に入っている、と、宣言された。(マタイ21:23-32)

イエスの血潮という、救いの「赤い印」が与えられたなら、それを決して離さず、神の国を熱心に求め、執念深く祝福を奪い取って行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!


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2013年08月18日

栄光の家系の女達 – ラハブ1 城壁の町で身売りする日々から(ヨシュア2:1−7)

引用元: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1575

栄光の家系の女達 – ラハブ1 城壁の町で身売りする日々から(ヨシュア2:1−7)

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イエス・キリストの系図に登場する二人目の女性は、ラハブである。

タマルの時代から下る事およそ五百年、死海北岸付近の、岩砂漠に囲まれたエリコという城塞都市である。

彼女は、イスラエル人が結婚するなどとんでもないとされている、カナン人で、しかも、遊女であった。

カナン地方は不道徳な地域で、弱肉強食の世界で、戦争も多かったが、それでも、彼女がエリコという堅固な城塞都市に住めた、という点では、生きて行く上では若干、有利な立場を得ていたかもしれない。

しかし決して、裕福な家に生まれた訳ではなかった。「将来、遊女になりたい」などと希望する子供など、いないだろうし、自分の家族が遊女になって欲しいなどと思う者は、いないだろう。

それでも彼女が身売りをしなければならなかったのは、それでも、生きて行かなくてはならなかったからだ。

先祖代々、補強して来た城壁の、その壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた、好きでもない男達に身を売り、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。

彼女が「神殿娼婦」だったとしても、彼女が仕えるカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活を良い方向に変えるわけでも、生き方が改善す
るわけも、全然無かった。彼女の信じる神々も、決して変わる様子も無い膨大な日々も、ただ、彼女から若さと将来と希望を、削ぎ取って行くだけだった。



そんな彼女は、ある噂を聞いていた。すなわち、力ある唯一の神と、その神に導かれている民族について。

その民族は神の民と呼ばれ、神から与えられた律法を有し、優れた道徳と規律を持っている。

その民はエジプトを徹底的に敗退させ、海を割って渡り、水も食物も無い荒野で四十年もの間、超自然的に養われ、川向こうの強力な王達を滅ぼし、そして今、このエリコをも滅ぼそうと、近くまで来ているという。

過酷な要求ばかりする神々に搾取され、ただ過酷なだけのこの現実の日々は、もうすぐ、その正しき神とその民の制裁によって、崩壊するかもしれない。それも
良いかもしれない。ただ願う事なら、自分達もその神の憐れみにすがって、救われたい。でも、彼らとコンタクトを取ろうにも為す術はなく、どうにもならな
い。

しかし、彼女のその心は、全能なる神に届いていた。なぜなら主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださるからだ。(2歴代誌16:9)



そんなある日、彼女の元に、二人の男性が来た。彼らは今までのどんな男とも違い、分別と秩序があった。

彼女は直感した。彼らこそ、あの神の民で、斥候としてこの地を探りに来たのだと。

エリコの王が彼らを捕らえる為、兵士達を遣わし、家の戸を叩いた時、彼女は究極の決断を迫られた。

すなわち、エリコの側につく者として彼らを差し出し、王からいくばくかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか。それとも、神につく者として、彼らをかくまい、神の民に入るための交渉を仕掛けるか。

彼女は、神につく決断を下した。リスクを犯して彼らを屋上に連れて行って、穂の束の間に彼らを隠した。(ヨシュア2:1-7) そうして彼女は、栄光の家系に入るチケットを手にした。



城壁の町で身売りをする日々から救われて神の民に入りたいと願っていたラハブに、神は目を留め、使いを送られたように、コンクリート砂漠の壁の中で、身売
りをしつつ虚しく日々を過ごしている私達全てに、主は目を留めておられる。そしてもし、主に救いを求めるのであれば、神の国からの使いが直接訪ねて来る。

その時、決断しなければならない。滅び去っていくべき、罪にまみれた生活を捨て去り、新しい、きよい生き方へと飛び込むか。それとも、今まで通り、城壁を頼りに身売りしつつ漫然と生きていくか。

不道徳に満ちたこの世界の終わりが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う人は多いが、救われるためには、イエスキリストを主とする決断をし、そして、実際の行動が必要である。

『信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、「不従順な(アペイセオー:服従しない、逆らう)」者どもと一緒に滅びることはなかった。』(ヘブル11:31)

彼女が救われ、栄光の家系に加えられたのは、信仰によってである。そして、彼女とその家族以外が滅びたのは、力強き神の噂を聞き、神の民が近くまで来ていたのに、それでも逆らい服従しなかったからである。

神様に助けを求め、救われたいと願い、主を呼び求める事、それが救いの第一歩である。イエス・キリストこそ唯一の救い主とし、この御方に自分の支配権を全て委ねるなら、その人は必ず救われるのである。


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2013年07月31日

枯れた骨も息を吹き返す(使徒2:1-4、エゼキエル37章)

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枯れた骨も息を吹き返す(使徒2:1-4、エゼキエル37章)

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本日ペンテコステは、イエス・キリストの弟子達が、聖霊に満たされ、力を受けた事を記念する日である。

聖霊の「霊」は、ギリシア語でプネウマ、ヘブライ語でルアッハ、いずれも「(神の)息」、「風」、「霊」を意味し、主のしもべにも、はしためにも、それが
与えられる事は、旧約の預言者たちによって預言されており(ヨエル2章)、それはまさに主の弟子達に与えられる事は、イエス様も言われていた事だった。
(使徒1章)

このペンテコステの日、激しい風が天から吹いて来るようなとどろきが、弟子達のいた家全体に響き渡り、炎のような分かれた舌が現れ一人一人の上に留まり、みな、聖霊に満たされ、異なる舌で話し出した。

「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは”力”を受け、、、地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)

力(デュナミス)。それはダイナマイトの語源で、ダイナマイトのような莫大なパワーを持つものであり、その力が与えられる目的は、イエス様の証人となるためである。

聖霊の「力」は、どれ程のものであるのか。エゼキエル書37章に、その顕著な様子を見る事ができる。



『主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。』(エゼキエル37:1) エゼ
キエルが連れて行かれた場所は、ひどく干からびた骨に満ちた谷、かつて戦により切り殺された者達が、骨の残骸となって、あちこちに散らばっている所だっ
た。

これらの骨は、バビロン捕囚で移されたイスラエルの全家をあらわしているが、それは次のような人達にも当てはめる事ができる。

すなわち、自らの不従順の罪によって徹底的に打たれ、もはや復興の望みは絶たれてしまったような人。

昔、若かりし頃の戦いに破れ、夢破られ、復帰する望みもない骨として年月を重ね、ただ枯れるに任せるしかなかった状態。あるいは、自らの罪と神への不従順
のために、暗く死に満ちた谷底に落とされ、果てしなく長い間、身動きもできぬまま、枯れ果てて行く自分を、ただじっと眺めていたような。そんな人達に。



『「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです。」』(3節) 枯れ果てた骨が、生き返る。それは、人には考えつきもしない事だが、主には何でも出来る。

主はエゼキエルに、それらの骨に預言せよ、と言われる。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす、と。(5-6節)

彼がその通り預言すると、ペンテコステの日のような、大きなとどろきと共に、骨と骨が互いにつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚が覆った。しかし、その中に「息」は無かった。(7-8節)

確かに主は、死んだような状態から、生き返らせて下さる。主の憐れみによって、かつては骨のような状態から、人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。

しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように、「行い」の無い、死んだも同然の状態である。



『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。』(9節)

その通り、彼が「息」に預言すると、息が彼らの中に入り、自分の足で立ち上がった。それは、非常に多くの集団(カッイル:軍団、部隊)となった。

ペテロやイエス様の弟子達は、以前は、大した実を結ぶ事のできない烏合の集団で、イエス様が十字架につけられた時、ちりぢりになり、死んだ骨のような状態
だったが、イエス様の息で息吹かれ、ペンテコステで聖霊に満たされて以降、力強く、大胆な伝道者となり、死をも恐れない神の軍団となって全世界に出て行
き、ローマを席巻し、ヨーロッパやアメリカ、アジアにまで、神の言葉が伝わっている。



自分は干からびた骨のようだ、と言っている人は、自分自身に、御言葉を宣言すべきである。生き返れ、と。

人並みに回復しても、御前に良しとされる行いの無い、死んだも同然のような人も、「息」に預言すべきである。「息よ、四方から吹いて来い、この者に吹きつけて、生き返らせよ」と。

神の息吹のダイナマイトパワーに満たされて、干からびた骨から、神の軍団へと造り替えられ、大胆にキリストを証して行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!


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2013年05月17日

ある母の愛の行動(2サムエル21:1-14)

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ある母の愛の行動(2サムエル21:1-14)

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本日は、母の日である。そこで今回は、リツパという、ある母の話をしたい。

リツパは、サウル王のそばめで、サウル王にふたりの子、アルモニとメフィボシェテを産んだ。

サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女と「寝る」事で、実権の確固たるをイスラエルにアピールしたが、彼も程なく殺され、全イスラエルはダビデの支配となった。(2サムエル3章)

それから年月が経ったある時、イスラエルに、三年続いて飢饉があった。

ダビデが主に伺うと、サウル王の時代、サウルがギブオン人達の血を流したため、という事だった。

ギブオン人はカナン人だが、ヨシュアの時代、計略を用いてイスラエルと盟約を結び、イスラエルは御心を求めず軽はずみな誓いをした事に後悔したが、主の御
前に誓ってしまった故、その約束は長らく守られてきた。しかし、サウル王は「熱心のあまり」、昔の誓いを無視して、ギブオン人の血を流していたのである。

主との誓いを軽んじ、身勝手な熱心を大上段に振り回した結果、招いたのは、子孫たちへの呪いだった。

そこでこの時、サウルの子孫7人がギブオン人の手に渡され、彼らの手によって殺され、主の御前に「さらし者」(恐らく木にかけられた)にされる事となったが、その7人の中に、リツパの二人の息子も入っていた。



『アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。』(21:10)

彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天の雨を降らせる時まで、その場を離れず、猛禽や獣から、息子たちの遺体を守り続けた。

ここまで徹底した愛、子が犠牲とされ、晒されても、なお守ろうとする「母の愛」以上の愛は、人間には無い。

子が、ぐれて悪くなり、一家の皆からは「死人」のように見なされても、それでも忘れず、いつも子を想い、守り、執り成す。母とは、そういうものである。しかしそれよりも、もっとすごい愛が存在する。神の愛である。

 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れるこ
とはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 」(イザヤ49:15-16)

今、私達を言いようもない深いうめきによって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)

聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになっても、なお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまでに、執り成す。



リツパのこの行動は、ダビデ王の心を動かし、忘れ去られていたサウルとその子ヨナタンの骨をヤベシュ・ギルアデのところから取り出す行動へと導き、サウルの父・キシュの墓に葬るようにさせた。

そして人々は、さらし者にされた者たちの骨を集め、王が命じた通りに行い、そうして、神は、イスラエルの祈りに心を動かされるに至った。

彼女が若い時に、サウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。しかし、彼女がその遺体を守り続け、神と人との前にその犠牲を
「さらし」続けた事によって、神はなだめられ、ギブオン人もなだめられ、日照りと乾燥の中、遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの雨が降り注いだ。

その雨は、イスラエル全体を潤し、イスラエルの多くの民に、パンをもたらした。

身勝手な正義は、子孫を呪いへと導く。しかし愛は建て上げ、多くの人に愛を思い起こさせ、恵みへと導く。



この、神と人との前にさらし者とされた7人は、イエスキリストのひな形である。

キリストも、大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者として神と人との前に、晒された。そして神は、ひとり子であるキリストのこの犠牲によってなだめられ、このイエスキリストを通して、全人類に、恵みと慈しみの雨が降り注ぐのだ。

私達も、アダムという「父」の罪の故に、生まれながらに呪われた者として、罪の刑罰を受ける者達だった。

しかし憐れみ豊かな神は、私達を愛する大きな愛の故に、キリスト・イエスを身代わりとして十字架の木にかけ、私達にいのちを得させて下さった。

このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至り広まっているのである。


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2013年03月22日

頑なな心と柔和な心(ヘブル3:7-19)

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頑なな心と柔和な心(ヘブル3:7-19)

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聖霊は私達に、以下の命令を、三度も繰り返して警告している。

「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(ヘブル3:7-8、同15節、同4:7)

かたくなさ。それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)

「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。」(同12節) 
ここの「不信仰(アピスティア)」は、2節や5節の、キリストの「忠実(ピストス)」の反対言葉で、不忠実を意味する。「弱い信仰」ではなく「反・信仰」
なのだ。



頑なな人は、災いである。いかに多くの奇跡を体験しても、いかにモーセのような素晴らしい導き者の指導を受けても、荒野で滅んでしまい、安息の地に決して入れないものだ。

そこには身分の高い低いは関係無く、多数決の原理も無い。エフライム部族の族長は約束の地に入れなかったのに、同じ部族でモーセのかばん持ちの若者・ヨ
シュアは、入れた。モーセが40日山から降りて来なかった時、アロンや民は不忠実に身勝手な神を造って堕落したが、ヨシュアは忠実に待っていた。

また彼は、モーセが会見の天幕から帰った後も、ずっと幕屋を離れずにいた程、忠実だったからだ。

60万以上の民が「エジプトへ帰ろう」と言い、二人が「約束の地へ行こう」と言うなら、普通、その集いはエジプトへ行く、というのが、多数決の原理であるが、神の真実は、それを許さない。

神の御心が、神の御約束が「約束の地へ導く」というのであれば、それを信じて従うべきであり、それに逆らったのがいかにアブラハムの子孫60万以上であっても、全員が荒野で屍を晒す事になったのである。

それ程、神の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう事には、厳然たる「災い」しか無いのだ。



「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」皆さんには今、主から何か御言葉は与えられているだろうか。何か約束が与えられているだろうか。

主に喜ばれるあの事を、今しなさい、と言われているだろうか。捧げ物を滞らせてはならない、と言われているだろうか。あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。

赦しなさい、と言われているだろうか。怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。

体を害するようなあの習慣から離れなさい、と言われているだろうか。

もし言われているなら、それから顔を背けずに服従すべきである。いつから?それは、きょうである。(13節)

聖書の御言葉を読んだ時、あるいは礼拝のメッセージや兄弟姉妹との交わりの内で、心に特に印象付けられたり、ひっかかりを覚える示しがあったなら、その「主の御声」から顔を背けず、服従すべきである。



私達は、聞いた御声に従い、与えられた御言葉を信じて服従するなら、安息に入る。しかし、荒野の民のように、御言葉を聞いてもそれを信じず、頑なになって御声を退けるなら、安息に入れず、滅んでしまう。

「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2)

頑なな心、すなわち、世の価値観によって踏み固められていたり、表層は柔らかくても内には固い岩があったり、あるいは、いばらの茂るような心であったなら、御言葉を混ぜても、実を結ばない。

しかし、御言葉が混ざりやすい柔和な心は、幸いである。その人は地を相続し、安息に入るからである。

信仰によって御言葉を自分自身と交ぜるなら、御言葉なるキリストと一体化する事となり、キリストの御業が自分の内に働き、キリストのいのちが自分のものとなり、キリストのご性質が、自身の内と外とに現わされる。

「わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:3)

安息の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、そして神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る。(同10節)

信仰によって御言葉なるキリストを自分自身に混ぜ、キリストとひとつとなり、神の安息の内に居続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!


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2013年03月10日

カインの礼拝とアベルの礼拝(創世記4:1-7)

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カインの礼拝とアベルの礼拝(創世記4:1-7)

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礼拝の時間は、神である主を敬い、賛美や祈りや捧げ物をささげ、そして主から、御言葉と恵みと答えと祝福をいただく、神と人との双方向の交わりの時である。

主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故主を敬う心は礼拝で最も必要であり、主が不在の形だけの礼拝は、御言葉も恵みも答えも祝福も、頂く事は出来ない。

そして、主と関わる時は、主の法則、すなわち御言葉に則って関わる必要があり、御言葉の根拠なき、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。

「主への祭り」と称して、金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。
(出エジプト記32章) 示されていた御言葉を読んだなら、それはとんでもない反逆だと判るものなのに、彼らには御言葉が無かったため、主へ礼拝を捧げて
いると大真面目に思いながらにして、主に滅ぼされる寸前の怒りを買っていたのである。

主に仕えている「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。

カインとアベルの礼拝から、私達が礼拝において気をつけるべき示唆を、多く得る事ができる。



「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に
持って来た。主はアベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、
KJVから翻訳)

主に捧げたのに、主からそっぽ向かれている感じがあったり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠いと感じる事があるだろうか。しかし、ある捧
げ物は主に目を向けられ、ある捧げ物は主からそっぽ向かれてしまう。そういう事は、厳然としてあるという事を、知るべきである。



アベルの捧げ物は、なぜ受け入れられたのか。それはまず、彼の捧げ方は、神の規定に叶っていた。

前回見たように、神の御前に有効とされる捧げ物は、いのちの犠牲がある事である。

アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、犠牲なき手軽な繕いは、神の目には何も覆われていないも同じである。犠牲がある事が、まず、神様の方法である。

また、アベルは最良のものの中からさらに厳選して捧げた。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、最良のものを捧げたからこそ、神様は彼と彼の捧げ物とにリスペクトされたのだ。



カインの捧げ物は、なぜ受け入れられなかったのか。それは、正しく行なっていなかったからである。(7節)

神の受けられるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心。神はそれを軽んじられない。(詩篇51:17)

カインの心が、もし神の前に砕かれ、悔いた心を持っていたなら、彼は「怒る」という事をしなかっただろう。

しかし彼は、怒った。怒った事によって、彼の心の内の傲慢さが明らかとされた。

また彼は、礼拝において、またその礼拝の成果について、他人と見比べるという事をした。

神ではなく人を、目に見えない神を敬うのではなく、目に見える人を気にしたのである。

私達は礼拝や奉仕で、人と見比べたり、自分がしようとした奉仕が、思い通りに行かなかったり、評価されなかったら、怒ったり、あの兄弟姉妹なぞいなくなってしまえ、という心が芽生えたり、していないだろうか。

礼拝や奉仕で「怒り」が出てきた時、神と人の前から「顔を伏せ」る時、私達の内に、カインの性質がある事を知るべきであり、その時は、戸口で待ち伏せしている罪を、支配しなくてはならない。(創世記4:6-7)

罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事によって、である。(2コリント10:5-6)

私達は神と関わる時、礼拝する時、常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。

為そうとしている事が御心にかなっているかどうかをチェックする最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)

礼拝や捧げ物に限らず、全ての事を、イエス・キリストの名に恥じずに行う皆さんでありますように!


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