2012年05月16日

テモテを育てた母たち(2テモテ1:5-7)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=909&cid=3 
 

テモテを育てた母たち(2テモテ1:5-7)  第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存   第二礼拝・説教音声:右クリックで保存   週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

  信仰と愛情によって子供を育てる母の存在は、実に偉大である。   ルツの義理の母ナオミは、夫に連れられて行った異国においても、嫁たちを信仰へと導き、ルツを立派な信仰者へと育て上げてボアズの元に嫁がせた。また、ボ アズの母ラハブも、偏見の目に晒されたであろう環境の中にあっても、息子ボアズをしっかりとした信仰へと導き、御言葉を敬う信仰者へと育て上げた。   聖書には他にも偉大な母達がいるが、今回は、偉大な働き人テモテを育てた母親達を見ていきたい。       テモテは、パウロが出会った当初から見初められ、パウロから委ねられた重要なミッションを遂行し、パウロが投獄されると、彼の代わりに各地を宣教し、諸地方の教会を励まして回り、また、数々のパウロ書簡の共同差出人となったほどの、重要な働き人だった。   彼がそのような強力な働き人へと育った背後に、この信仰篤き母・ユニケや、祖母・ロイスの存在があった。   彼女たちが住み、テモテが育った場所は、ルステラという町で、パウロが最初にここを訪れた時、彼はユダヤの会堂ではなく、どこか公の場で宣教していたため、恐らくそこにはユダヤの会堂は無かったのだろう。   その代わり、町の門の所にはゼウス神殿があり(使徒14:13)、その神殿には常にゼウスの祭司が仕えているという、現代日本のように異教的な空気に満ちた環境であった。   パウロがルステラで伝道している時、生まれつき足のきかない足なえが、信仰によって癒されたが、それを見た群衆は、パウロ達を神々にしてしまい、祭司は彼らに、いけにえを捧げようとさえした。(使徒14:8-18)   その直後、群衆はユダヤ人の扇動によって、いとも簡単に心を翻し、今度はパウロを石打にしてしまった。   このように、彼の育った環境は、異教的で、節操が無く、あちらこちらへとなびき易い人達に囲まれていた。       テモテの父親はギリシア人であるが、名前が記されていない為、恐らく彼は信じるに至らなかったのだろう。   テモテは当初、割礼を受けていなかったが、もしかしたら父はユニケの願いを許さなかったのかもしれない。   そのように、節操なく異教的な環境の中、また、父親が不信仰であっても、偉大な働き人・テモテは、立派に育った。何によってか。それは母の祈りと、御言葉の教育によって、そして、御霊の助けを得てである。   現代日本を生きる私達も、いかに異教的な雰囲気の中にあろうと、いかに信仰の無い家族が共に住んでいようとも、祈りと御言葉によって聖めれば、主のために有用な働き人を育て上げる事が出来るのである。   私達には不可能に思える事でも、御霊の助けを得れば不可能な事は無く、辛く過酷に思える環境にあっても、御霊に導かれるなら、さほど大変とも思わずに、主の働きをやってのけてしまえるものである。       テモテは、ユニケやロイスの元で成長したが、やがて、彼女らの元から出て、神の働きへと出る時が来る。   母はいつまでも子と共にいる事は出来ないが、聖霊はいつも私達と共におられ、主の働きを為す事を助けて下さり、また、父なる神様の御前に、深いうめきによって、私達を取り成して下さるのだ。(ローマ8:26)   ツロ・フェニキアの女は、自分の娘のためにイエス様に願い続け、子犬呼ばわりされてもなお「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたち のパンくずをいただきます。」と告白し、主から娘の癒しをいただいた。(マルコ7:24-30) 母の愛はこのように、子のためになら命を投げ出しても助 けようとするが、御霊はなお深く、私達を救わんとしてうめき、取り成し、助けて下さるのだ。       パウロはテモテに、この力ある御霊を奮い立たせ、いつも御霊に頼るよう勧めた。   「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(2テモテ1:6-7)   たとえ肉の母はいなくても、実の母以上に私達を愛し、深いうめきによって執り成して下さる御霊は、いつも共におり、例え私達は臆病にならざるを得ないような状況に置かれたとしても、力を与え、愛を与え、何を為すべきか・為さぬべきかの思慮分別をも、聖霊は与えて下さる。   私達は特に、信仰を育ててくれた霊的な母を敬うべきである。そして皆さん自身も、ロイスやユニケのように、霊的ないのちを生み、偉大な働き人を育てるようになりますように!イエス様の名前によって祝福します!  
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2012年05月10日

系図に秘められた福音(創世記5:1-32)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=907

礼拝説教メッセージ音声:系図に秘められた福音(創世記5:1-32):右クリックで保存 韓国語通訳有

創世記5章は、アダムの子セツ以降、人類が一旦滅びるノアの時代までの系図である。 人名にはそれぞれ意味があるが、面白い事に、アダム系図の名前の意味を順に列挙して行くと、ある意味が浮かび上がって来る。 アダムは「人、土」という意味があり、セツは「約束の、授けられた、定着した」という意味で、エノシュは「脆い、致命的、悲惨」、ケナンは「悲しみ、哀歌」、 マハラルエルはマハラル「祝福」とエル「神」の合成で、「祝福の神」という意味、エレデは「降りてくる」、エノクは「教える、始まる、ささげる」、 メトシェラは「彼が死ぬ時、何かが起きる」、レメクは「嘆き、悲しみ」、ノアは「慰め、新しい希望」という意味である。 これらの名前をつなげると、次のようになる。 「人は、定着した(約束された)。脆さ、致命的、悲惨、悲しみが。祝福の神は、降りてきて、捧げた(教えた)。彼が死ぬ時、次の事が起きた。嘆き悲しみは、慰められた(新しい希望となった。)。」 これは、キリストを如実に表していないだろうか。 系図の中には他にも、福音がちりばめられているのを見る。 「エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。・・・エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:22-24) エノクは信仰によって神と共に歩み、死を経験しないよう天に移された(ヘブル11:5)が、エノクは、信仰によって永遠の死から免れる、現代の私達の雛形である。 また、エノクはカイン系列の不信心な者たちに預言した。 『アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての 人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためで ある。」』(ユダ14,15節) 彼は、邪悪な世代に対し、やがて主が来られて全ての人を裁かれる事を公に言った。 私達もまた、世に対して福音を伝え、義と裁きと救いについて伝えるべきである。 エノクは自分の子の名にメトシェラ(彼が死ぬ時、何かが起こる)と名付けたが、実際、メトシェラが死んだ年に、洪水が起こった。 (メトシェラが187歳になったとき、レメクを産み、レメクが182歳になった時ノアが生まれた。この時、メトシェラは187+182=369歳。 ノアが600歳の時に大洪水が起こり(7:6)、この時メトシェラは369+600=969歳、5章27節の彼の死んだ歳と一致している。) メトシェラ自身の名前は、そのまま預言だったのである。 神は、前触れもなく突然裁きを起こすことはなさらない。 必ず預言の御言葉を人々に示し、そのとおりに事を行われるお方である。 私達もエノクやノアのように、邪悪な時代にあって御言葉を世に示し、伝え、信仰にあって生きていくのである。 このノアの時代に一旦人類は滅びたのだが、ノアは神とともに歩んだ信仰によって、滅び去る世から、次の新しい改まった世へと生きながらえた。 私達も、信仰によって次の世へと生き長らえるのである。

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2012年05月06日

まことの夫へと納まる(ルツ記4章(13-17))

参照元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=890&cid=3

まことの夫へと納まる(ルツ記4章(13-17)) 第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存 第二礼拝・説教音声:右クリックで保存 週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ルツは「あなたの神はわたしの神」という信仰告白によって神の恵みを拾う者になり、神の民に加えられ、また、信仰の先輩であるナオミに言われた通りに従順に実行して、ボアズの所に行った。 彼女はボアズに「あなたは誰か」と訊ねられた時、自分とボアズの関係を告白し、あなたの衣で自分を覆って下さいと願った。その御言葉への従順をボアズは賞賛し、ルツを迎え入れるための手続きへと入った。 「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(3:18) 私達 も、信仰の先輩たちの言う通り主の所に行き、自分が主のはしためである事を告白し、主の救いの衣の内に入らせて下さるよう願うなら、主はそれを喜び、主の 方が心配して全ての算段を整えて下さり、私達が納まるべき所に納めるまで、働いて下さる。 私達の責任は信仰告白とその実践であり、後は皆、主が為して下さるのをじっと待っていれば良い。 ボアズは早速、正式にエリメレクの畑を買戻してルツをめとる為、ボアズよりも近い親類の者と、町の長老10人を呼び寄せ、座ってもらった。(4:1-2) 日本語聖書では丁寧な言葉で親類に呼びかけているように訳されているが、原文は、ボアズのほうが目上の立場としてこの親類に呼びかけており、また町の長老 を10人も呼び寄せる所を見ると、ボアズはかなりの有力者で、また年長者であった(3:10)と見る事ができる。 かの親類は、資産はあったが、ルツをめとる事は拒んだ。なぜなら、そうしたら最初に生まれてくる息子は自分のものとはならず、ルツの亡夫マフロンの名を継がせなくてはならないからである。(申命記25:5-10) 栄光の家系を受け継ぐ者は、血肉を頼みとし、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する者である。(1コリ15:45-50) 肉にある者は結局、自分の身を捨ててまで妻を愛しつくす事はできないし、養えるだけの甲斐性もないが、真のボアズであるイエス様は、自身を捨て私達を愛し、買い取って下さり、完全に養う事ができる。 こうしてボアズは、神と人との前で祝福されつつ、正式にルツをめとり、主はルツに男の子を授けて下さる。 律法によると本来、この子の名はマフロンとなるはずだが、女たちはなぜか「オベデ」と呼んだ。(4:17) ルツの亡夫「マフロン」の名には「大きな欠点」「病弱」という意味があるが(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」という名には「仕える」「僕」という意味がある。 ルツの以前の夫は病弱で、欠点があり、ルツを養いきれずに死んでしまったが、彼女は信仰によって、まことの夫・ボアス(名の意:「彼に内住する力」)へと嫁ぎ、買い戻され、完全に養われるようになった。 私達も以前、律法という不完全な夫に縛られていたが、キリストにあって古い自分に対して死に、また私たちも律法に対して死んだ結果、欠点や弱さから解放され、新しい霊に「仕える者」とされた。(ロマ7:1-6) 女たちは次のように言って喜んだ。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。・・・その子は あなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」 (4:14-15) この子はナオミにとって、家を絶やさぬ者となり、老後に背負う者となった。 同じように、ひとりのみどりごが私達のために生まれた。その方こそ私達の主イエス様であり、彼は私達の主権者、ワンダフル・カウンセラーであり、力ある神、平和の君(イザヤ9:6)、 老後にも背負う者である。 『あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は 「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。 若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。』(イザヤ62:4-5 口語訳) ここの「あなたの子らはあなたをめとり」の「子」の原意は、子孫や氏、国などの広い意味を持ち、「めとる」の原意は「主人になる」という意味である。 ルツの子オベデはナオミの老後を養う者となって子孫にダビデやイエスキリストが出たように、私達も信仰によってキリストを宿し、信仰によって生んだ霊的な 子孫たちは後に私達を養い、そして私達ともども、キリストの花嫁、すなわち、神の教会(エクレシア:召し出された者達)として完成されて行くのである。

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2012年04月22日

落穂拾い(ルツ記2章(1-3))

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=877

落穂拾い(ルツ記2章(1-3)) 第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存 第二礼拝・説教音声:右クリックで保存 週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ルツは信仰告白によって、ナオミに希望と喜びをもたらし、ひいてはイスラエル全体に祝福をもたらす器となったが、ベツレヘムに着いた時の彼女は、頼るべき男手も、財産も一切無い、異国出身の未亡人であり、ただ傷心に沈んでいる、無力なナオミが一緒にいるだけだった。 その時ルツは自分には何も出来ないと思っただろうし、一体何から行えば良いかも分からなかっただろう。 そんな彼女が、祝福の器へと変えられた第一歩は、落ち穂拾いであった。 イスラエルはルツにとって見知らぬ土地であり、外国人の彼女が、人様の畑に行って落ち穂を拾い集めるなど、どれほど勇気が要っただろう。人からいじめられ て当然の行為(2:22)であるが、それでも、ただ膝をかがめて、憐れみにすがるしかない。そんな事は、よほど心砕かれていないと出来るものではない。 困った状況に陥った時、「自分は大丈夫だ」「人の憐れみなどいらない」などとやせ我慢をしてしまうと、そのプライドが更に自分を苦しめ、最後にはどうにもならない所へと、追い詰められてしまう。 神の恵みを頂くには、まず、そのような「誇り高さ」や「自尊心」は、打ち砕かれていなくてはならない。 どうすれば落穂(恵み)を拾う事ができるか? それは、膝をついて、低くかがむ事から始まる。 傷心のナオミと共に引きこもって、自分の境遇を嘆いたり、過去を思い巡らして自己憐憫に陥っていて何もしなかったりすると、落穂はどんどん鳥についばまれ てしまうし、落穂を眺めつつプライドのために膝を屈める事をしないと、恵みのチャンスはどんどん逃げて行き、家族はどんどんお腹を空かせて行く。 主は憐れみ深い。どんなにそしりを受けても、口をちりにつけて主の救いを黙って求めるなら、主はいつまでも見放してはおられず、豊かな恵みによって憐れんでくださる。(哀歌3:22-32) ルツは思い切って、刈り入れをしている一つの畑に飛び込んだが、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」(2:3) エリメレクはナオミの夫で、ルツはそれとは知らずに飛び込んだのだが、それは単なる偶然ではない。 ルツがこの畑に飛び込んだのも、ダビデがゴリアテに致命傷を負わせる石を放ったのも、一人の兵が悪王アハブに致命傷を負わせる矢を放ったのも、それら全て は「たまたま」であったが、主は導きによって、人や環境、状況を支配して御心を行い、信仰を持って第一歩を踏み出す者に、恵みを与えて下さる。 しかし、畑に飛び込まない者、石を投げない者、弓矢を引かない者には、何も下さらない。 ルツはプライドを捨て、信仰により落穂拾いへと身を投じ、そうして将来の夫・ボアズの保護下へと導かれたように、私達も、誇り高ぶる心を捨て、主の前に膝をかがめ身を低くする事によって、まことの夫であるキリストの保護下へと導かれるのだ。 ボアズは、ルツの精一杯の信仰告白を既にすっかり聞いており(2:11)、ルツが落穂を拾う事をじゃましないように若者たちにきつく命じた(同9節)よう に、私達の主も、私達の小さな精一杯の信仰告白をしっかりと聞いて下さり、私達が恵みを拾うことを邪魔しないよう全ての物事にきつく命じてくださる。 ボアズはルツに、パン切れと酢に浸して食るよう、ねんごろに誘い、十分な量の煎り麦を与えてくれたように、私達の主も、キリストのからだを共に食しなさいと親しく語りかけ、家族を養う程の食料を与えて下さる。 ボアズはルツが束の間でも穂を拾うことを赦し、しかもわざと穂を抜き落とすよう僕達に命じ、叱ったり恥ずかしい思いをさせないよう命じたように、私達の主 も、大胆に恵みの座に近づいて、折にかなった助けを存分に得る事を許され(ヘブル4:15-16)、恵みをわざと落とし、恥ずかしい思いをさせないよう命 じて下さる。 『 「お前は誰だ」とボアズが言うとルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。』(3:9新共同訳) この告白はボアズを喜ばせ祝福させたように、私達も主になりふり構わず、体当たりで主に迫るべきである。 私たちの居場所は、キリストの衣の内側であり、キリストの脇腹の中である。 そこから迷い出る事なく、贖いの衣の内に包まれ、愛の内に育まれ、家族ともども養っていただく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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2012年04月15日

大麦の刈り入れの頃(ルツ記1章(1-7))

「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。」(21,22節)

家族やパンといった、この世由来の「快さ」(ナオミ)は、いつ「苦さ」(マラ)になってもおかしくはない。 神はねたむ神であり、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされ、そして決して色褪せる事のない「ナオミ」へと導かれる。

マラの苦い水をナオミに変えるには、十字架という木を投げ込む事。

彼女のうつろな帰国は、そこへ導くための祝福へのステップであり、その鍵は、ルツの存在である。

ルツは、祝福の器となって、ナオミに希望と喜びをもたらすようになり、そればかりでなく、彼女はイスラエル全体に祝福をもたらす器となった。ルツの曾孫にダビデが生まれ、イエスキリストが生まれたのだ。

詳細:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=865
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2012年04月03日

十字架の前の人間模様(ルカ23:13-27)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=844

十字架の前の人間模様(ルカ23:13-27) 第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存 第二礼拝・説教音声:右クリックで保存 週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は棕櫚の主日で、イエス様が十字架に架けられるためにエルサレム入城をしたのを覚える日である。 群集はロバに乗って通られるイエス様の行く道に、棕櫚の葉を切って敷いたり、自分の服を脱いで敷いたりして、「ホサナ」(ああ救い給え)と叫びつつイエス 様を迎えたが、群集はイエスがどういうお方かを知らず(マタイ21:1-11)、 一週間もしない内に今度はイエスを「十字架につけろ」と叫ぶ側へと一転した。 十字架へと向かうイエスを中心に、色々な人物が登場し、色々な人間模様が展開されるが、私達は彼らを歴史上の人物として第3者的にどうこう批評するのでは なく、私達はキリストの一体「何」で、キリストの十字架に関わる登場人物の内の、誰に該当するかを、意識するべきである。 「ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」(ルカ23:24-25) ポンテオ・ピラトは使徒信条でマリヤに次いで出る程、キリスト者にとって重要な人物である。主が苦しみを受けられたのは祭司長や律法学者、ローマ兵の元で あり、ピラトはむしろイエスさまを3度もかばっていて一見良い人物にも見えるのに、なぜ使徒信条では「ポンテオ・ピラトの元で苦しみを受け」なのか。 祭司長や律法学者達など、イエス様を最初から否定し、否定して終わるような者達には、主は目も留めておられないが、主に目を向けようとする者達にこそ主は目を留められ、特別に扱われるのだ。 ポンテオ・ピラトは、総督として、イエス様を十字架につける権限もあれば、十字架から守る権限もあった。 実はキリスト者は、ポンテオ・ピラトと実によく似た立場にあり、人間(自分も含め)の意見を突っぱねてイエス様を解放する選択を取るか、それとも、人(自 分も含め)の意見に妥協してイエス様を拘束し、内にいる暴動と人殺しのバラバを解き放つか、という権限が、いつでもある。 それ故、あなたも人の意見に妥協してイエス様を退ける時、主は「あなたの元で苦しみを受け」られるのだ。 ヘロデ・アンティパスはイエスを見ると、非常に喜んだ。それは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。(ルカ23:6-12) しかし彼は興味本位で色々と質問するだけで、それに対してイエス様は、一言も言わず黙っていた。 イエス様を単に興味本位で質問し、派手に飾り立てたり茶化したりして見て、イエス様から何も反応が無いと、なぶりものにして送り返すような者達に対しては、イエス様は始終、何の反応もされないのだ。 イエス様はピラトの前で多くの鞭を打たれ、多量の出血をしていた為、十字架を最後まで運びきる事が出来なかったため、たまたま通りかかったクレネ人シモンが徴用され、イエス様の十字架を運ぶ事になった。 彼はたまたまその場に居合わせ、血まみれで十字架を運ぶイエス様を野次馬のように見ていただけだったかもしれず、そこを突然徴用された為、とんだとばっちりをもらったと思ったかもしれない。 しかし、かの死刑囚はどうも邪悪ではなさそうで、しかも、大勢の女達が泣きながら彼に従っていた。 彼女達は「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられさえされない程、数に入らぬ、取るに足らぬ存在だった。 恐らく女性達は「本当は私達があなたの役割を果たしたかった」「でも、力が無いので出来なかった。」「助けてくれて本当にありがとう」と、シモンに声をかけただろう。 彼はアレキサンデルとルポスの父で(マルコ15:21)、そのルポスがローマ16:13の人と同一人物であるとしたら、彼は後のキリスト者の集まりで「主にあって選ばれた者」として有名人物となったのだろう。 クレネ人シモンはある日偶然、ぼろぼろのイエス様と出会い、半ば暴力的に一緒に十字架を背負う助けをし、女性達はただ泣いてついて行くしか出来なかったが、そうする事で主と共に十字架を背負ったのだ。 クレネ人シモンはやがて十字架を肩から下ろす時が来て、そして主は大勢の人の身代わりとして十字架にかかる。それはイエス様しか出来ないが、シモンや女性達のように、私達も主と共に負える十字架がある。 私達は十字架の主を前に、祭司長達に扇動された人々にも、祭司長にも、ペテロにも、イスカリオテ・ユダにも、ポンテオ・ピラトにも、ヘロデにも、クレネ人シモンにも、名も無き女性達にも、なり得る。 自分を捨て、自分の十字架を負い、その上で主について行く皆さんでありますように!

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2012年03月27日

いのちを選べ(ヨハネ13:21-30)

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第一礼拝音声:いのちを選べ(ヨハネ13:21-30) :右クリックで保存

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『一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」』(マタイ
26:21)イエス様は全ての人の思いをご存知であり、時にそれを喜び、時にそれを悲しみ、時には激情に駆られて、叫ぶ。(ヨハネ13:21)

弟子達はこれを聞いた時「きっとあいつだ」とは誰も言わず「主よ、まさか私のことでは」と言って悲しんだ。

イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」このイエス様の応えは
厳密に訳すと、「君がそう言うなら、そうかもしれない。」つまり、裏切り者であるかの白黒判断はイエス様がするのではなく、ユダに投げ返し、ユダに判断を
委ねている。



実はこれ以前に、ユダの心にイエス様を裏切ろうとする思いを、予めサタンが入れていた。(ヨハ13:2)

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものであり(エペソ6:12)、その戦いが展開される領域は、思い(はかりごと)である。

皆さんも誰かに対して、あるいは過ぎ去った事に関して、どうしようもなく苦々しい思いが沸き起こり、その思いの中の状況と一人で対話したり、空想の中でそ
の憎たらしい奴を叩きのめしたり、詮索しても仕方の無い過去を、堂々巡りに思い巡らしたりして、眠れぬ夜を過ごした事は無いだろうか。

そのような時はほぼ、サタンが自らの汚れた思いを吹き込んでいると見て間違い無い。ユダは「イエスに仕えてメリットはあったか?」「あの時のイエスの行動
はお前をばかにしているぞ」など、サタンが吹き込んだ思いと対話し、それを思い巡らせ、熟成させ、イエス様を裏切ろうとする決心を固めて行ってしまった。



サタンが私達に、悪しき思いを吹き込む時、それと会話せず、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、戸口で待ち伏せている罪に支配されるのではなく、支配せねばならない。(創4:7)

弟子達はイエス様を「主」と呼び、ユダは「先生」と呼んだが、これは弟子とユダの違いを端的に表している。

イエス様が主であるなら、主の思いが自分の思いと異なる場合、主に従うが、福音を何か自分から着脱可能な「教え」とし、イエス様を「先生」としている者は、いざという時、ユダのようにイエス様を捨ててしまう。

イエス様が主従関係の「主」であり、私達が「従」であるなら、主がその人を牧し、導き、守って下さる。



イエス様はユダの所に歩いて行き、浸したパン切れを渡したが、実に不思議な事に、弟子達はそれを見て、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に
何か施すように」とイエスが言われたのだと思っていた。言葉と所作の前後関係からして、ユダが裏切り者だと示しているのは明白であるはずなのに、弟子たち
はなぜ分からなかったのか。

パン切れを浸して渡すという行為は、特別な親しみを示す行為であり(ルツ2:14)、イエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、優雅な品性に満ち、ユダへの愛情が込められていたのである。

ユダはパンを受け取った時、イエス様は全てをご存知で、今悔い改めても遅くはないと気付くべきだった。

しかしユダは逆に、それまで思いの中でサタンと対話し、熟成して来たイエス様への渦巻く思いを、取り返しのつかない爆発へと発展させる事を、許してしまった。

イエス様はそんなユダに「しようとする事を今すぐしなさい」と言い、ここでもユダの自由意志に委ねた。



主は、人の自由意志を束縛するお方ではなく、アダムやカイン、ユダの「裏切る自由意志」さえ尊重した。

神は人を、神の似姿として創られた以上、その自由意志を尊重し、そして人が誤った選択をし、死と罪へと落ち込んでしまったのに対しても、一人子の命を捨ててまで救い出す程、人を愛し尽くしているのである。

人は神さえ犯せない自由意志があるが、蒔いた種は必ず刈り取らねばならない事も覚えておくべきである。

自由意志を使って、イエス様の下に立ち返る事ができるし、ユダのように立ち帰らない自由もある。

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)

今は恵みの時、救いの時。ユダのように、自分の思いを取ってイエスを売るのではなく、自分をイエスに明け渡し、いのちを得る事を選ぶ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!


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2012年03月18日

300デナリを捧げるか、銀30枚を取るか(ヨハネ12:1-8)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=822

300デナリを捧げるか、銀30枚を取るか(ヨハネ12:1-8)

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イエス様は、苦難を受けられるかの過越祭の6日前、ベタニヤにて晩餐にあずかった。

食卓にはイエス様に甦らせて頂いたラザロも共に着座し、マルタは喜びをもって給仕していた。

マルタはかつて、色々な事を気遣う事に頭が一杯で、主の足元で御言葉を聞き入っているマリヤも働くよう主に指示したが、ラザロを甦らせて頂き、イエスこそ命の君であると知ったため、自分に与えられている賜物をいかんなく発揮し、喜びをもって主に捧げていた。

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)

彼女はいつも主の足元に座って、じっと見言葉に聞き入っていたため、他の弟子達は気付かなかった主の心の機微を察知し、6日前という、早すぎず遅すぎないベストな時期に、主の葬りの用意を実行した。

彼女はその時、大切な物を惜しげなく主の御前で割り、主が働き歩んできた「足」に塗り、女の冠である髪でぬぐったからこそ、香ばしい香りがいっぱい広がり、永遠に残る記念として語り継がれるようになった。



信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉による(ローマ10:17)とある通り、私達も主の御足元で御言葉を聞き入っているな
ら、そのタイミングでしか出来ない事を見分ける事ができ、その時、自分の大切なものを主の御前に割って捧げつくし、自分の冠を、主の「足ぬぐい」にさえ喜
んで差し出すなら、主の喜ばれる香りが溢れ満ち、それは永遠に語り継がれる記念として、御前に残るのである。

私達は主のために、どんな「香油」を割れるだろうか。また、どんな「髪」で、主の御足を拭えるだろうか。



さて、この高貴な香り漂う麗しい調和を破って、しゃしゃり出る者があった。イスカリオテ・ユダである。

 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がそう言ったのは、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を自分のものとして、好きにしたいからである。

マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟り、止むに止まれぬ思いで捧げただけなのに、ユダは主の御思いを量るどころか、主
ではなく人を見て、「私だったら300デナリをこうする」と言って、自分の定める礼拝形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたり
した。

彼の特徴は、聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする事である。そのような者は、要注意だ。

また、麗しい調和をぶち壊して、人々の注目を自分に向けさせ、アピールし、栄光も横取りしたりする。

このような者はイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍している自分が好きなのであり、イエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえする。



私達はさまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、欲
望や一時の感情という「銀貨三十枚」と引き換えに、イエス様を見積もって売りたい性質、裏切りたいようなユダの性質を、取り扱わなくてはならない。

あの人の捧げ物は間違っていると陰口を叩いたり、兄弟姉妹の麗しい交わりを、自分の気に食わないと言ってぶち壊したりする時、高貴な香り漂う場は一転して汚れた欲望の臭いニオイに満ちてしまうからだ。



イエス様は、ユダの下心も、あさましい動機も、当然知っていたが、その事は一切触れず、平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭した。「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)

それが私達も習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。



私達はいつまでも地上で生き長らえている保障はなく、いつまでも赦してもらえる、という保障は無い。

私達はマリヤのように、捧げるべき時機にいつでも300デナリを捧げる準備は出来ているだろうか。

それとも、いつでもイエス様を売って、自分の好き勝手という銀30枚を得たい心を、野放しにするだろうか。

今しか出来ない悔い改めも、今しか出来ない礼拝も、先延ばしするのではなく、今、為すべきである!

マリヤのように主に香ばしい捧げ物をする皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!


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2012年03月11日

的を射た歩み(ルツ2:1-16)

引用元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=808

的を射た歩み(ルツ2:1-16)

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本日は震災からちょうど一年目、日本の至る所で追悼式が行われるが、私たちは今日、何をもとにして歩むべきか。

私たちは、的を射た歩みをすべきである。

罪(ハマルティア)とは「的外れ」という意味であり、的を外した歩みは、余計な労働に掻き回される上、何も有益なものを残さない。

的を射た歩みとは、決して動かされる事の無い岩、すなわちキリストを土台として人生を建てあげていく歩みであり、このお方を除いた歩みは、砂の上に建てた楼閣にすぎない。

神への不従順とその報いである災いが満ちている世にあっても、しっかりと力をつけていき、栄えた男がいる。

「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。」(ルツ2:1)

当時のイスラエルは、律法に従順するのではなく、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っており、イスラエルが神から離れる度に、神は外敵を用いてイ
スラエルを懲らしめ、それでイスラエルは神に立ち返り、神は憐れんでさばきつかさを用いてイスラエルを救い、そうして束の間の平和が訪れ、しかし、後の代
になると再び神から離れ、神は再び外敵を用いて懲らしめ・・・というサイクルが、当時続いていた。

そんな災いの中でも着実に有力者になって行き、後には王族の家系を生み出した男が、ボアズである。



彼の父はユダ族のサルモン、母はかつてカナンの城塞都市エリコで遊女をしていた、あのラハブである。

サルモン(名の意:平和を好む)はヨシュアがエリコを探らせた二人の斥候の一人ではないか、という説もあるが、どのような馴れ初めで結ばれたにしろ、あの
異邦人や不品行に厳しいイスラエルの中で、妻ラハブや息子ボアズを養う時、世間からの理不尽な偏見や妨害もあったであろう事は、容易に予想できる。

しかも、当時イスラエルは不従順の故、外敵の攻撃やききんによって、不安定な生活を強いられていた。

そのような災い多き世情、そのような家庭事情の中であっても、着実に力を伸ばして行けた秘訣は、一体何だろう。ボアズの言動から、その秘訣を探っていきたい。



『ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。』(ルツ2:4)

この短い一節から、彼は身内との挨拶に「主が共におられるように」という祈りと、「主が祝福して下さるように」という祝福を、日常的に交わしていた事が伺える。祝福の挨拶を交わす事は、有力者の第一歩である。



ボアズはルツに、よその畑に落ち穂を拾いに行かず、この畑で拾うよう勧め、また、ルツが落穂を拾うのを若い者が邪魔をしないようきつく命じ、喉が渇いたら汲んである水を自由に飲むよう、勧めた(2:8-9)

当時、落穂拾いをする人は、いじめられるのが常だった(2:22)が、ボアズは主の方法をよく心得ていた。

申命記24:19によると、穀物の束を畑に置き忘れたら、取りに戻らぬように、なぜなら、それは在留異国人ややもめのものであるから、そのようにするのであれば、主は祝福して下さる、と書いてある。

神は在留異国人ややもめを憐れみ、養ってくださるが、しかしボアズは、束を「わざと」落とすよう指示して(2:16)神の憐れみの業を自分のわざとし、神の思いを自分の思いとした。

有力者の行動パタンは、弱い者を憐れみ、神のご性質をよく知り、神の働きを、自分の働きとする事である。



ルツの信仰を導いた義母ナオミは、全能者が自分をひどい目に合わせたから自分をマラ(苦しむ)と呼ぶよう人々に言ったが、ボアズは主を「報いて下さるお方」「翼の下でかくまって下さるお方」と認めていた。

『どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。』(2:12)

ボアズの生きた世情、生まれた家庭環境を鑑みるに、彼は神に対し、ひねくれて育つ要素は十分あったが、彼はあくまで、主に対するポジティブな見方を変えなかった。それもまた、有力者の思考パタンである。



またボアズは、自分のはやる思いに走らず、目上の人への礼儀を重んじ、世の中のルールに従順した。

ルツにせまられた時も、自分よりも近い買戻しの権利のある親類を置いて自分勝手には出来ないと告げたし(3:12-13)、その翌日、当の親類を10人の
長老と共に呼び集め、彼らの前で正式に買い戻しの手続きを行い、ルツを公にめとり、結果、ボアズは長老達から、ナオミは女達から、公に祝福された。
(4:11-15)



ボアズのように、主に対してポジティブな信仰を持って、祝福の挨拶を交し合い、主の御思いを自分の思いとし、自分のはやる思いに走らず、主にある兄弟姉妹
や目上の人への礼節を重んじて、この災い多い世情においても、有力者となって栄える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!


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2012年03月05日

らくだが針の穴を通るには(マタイ19:16-26)

転載元:http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=795

らくだが針の穴を通るには(マタイ19:16-26)

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『さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「な
ぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」』(マタイ19:17)

永遠のいのちを手に入れるにはどんな事を、という質問に対して、イエス様は「善い方」をお答えになった。

これは、質問への答になっていないようで、実は、真に答えである。

私達はこの青年のように、とかく「善いこと」を模索するが、大切なのは「お方」である。



彼は「善いこと」をさらに追求した結果、イエス様から到底出来ないような事を示された。

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。(21節)

イエスは彼が去っていくのを見て言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(23-24節)



金持ちになったら、自動的に天の国に入れなくなる、という訳ではないし、イエス様は金持ちが嫌いという訳でもない。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われ
た」とあるように(マルコ10:21)、イエス様は、この金持ちの青年を慈しまれ(loved him)、救われて欲しいと願っておられた。

それにしても一体、自分の積み立ててきた財産を一切投げ出して、貧しい人に施せる者など、どれほどいるだろうか? 一体、らくだが針の穴を通る方法は、あるのだろうか?

誰もが認める金持ち悪人だったのに、財を投げ打って施すまでに変えられたザアカイから、ヒントを見たい。



ザアカイは取税人の頭で金持ちだった。(ルカ19:1-10)当時の取税人は、忌むべき支配国ローマ帝国のために、しかも、取り立てるべき税額を水増しして取り立てていたため、売国奴同然に嫌われていた。

そんなザアカイだったが、彼は群集に邪魔され、それでも、木に登ってでも、イエス様を見たいと思った。

するとイエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われた。

ザアカイは喜んでイエス様を自分の所に迎え入れ、そして、財産の半分は貧しい人に施し、だまし取った物は4倍にして返す、と言う程に、彼の人格も人生も、わずかの間に変えられた。

イエス様の一言「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じただけで、らくだが針の穴を、通ったのである!

変えられるコツとは、ザアカイのように、木に登ってでもイエス様を求め、そしてイエス様の「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じて、喜んで自分の中にイエス様をお迎えする事である。(黙示録3:20)



青年はイエス様を「善い先生」と呼び、善い事について教えを求めたが、完全な者になるための善い事を教えられたものの、しかしその内容は人には到底不可能な内容で、イエス様を置いて去るしか無かった。

対してザアカイは、イエス様を「先生」ではなく「主よ」と呼び(ルカ19:8)、イエス様を喜んで自分の所に迎え入れた結果、言われてもいないのに、喜んで貧しい人のために財を投げ打ち、喜びの内に救いを得た。

イエス様をどなたと見るかは、大切である。イエス様を「善い先生」と見るなら、人には到底辿り着くことの出来ない高みを見せられ、絶望するしかない。しか
しそれでもイエスを主として呼び求め、自分の中に迎え入れるなら、人には到底出来ない事が、ラクに、喜んで出来るように、なるのである。

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)大切なのは事ではなくお方である。



私達はとかく、砂漠のような世でも、多くを積んで逞しく運んで行く「らくだ」のようになりたがる。

しかし神の国に入る門は狭く、余計なものは門の前に置いて行かなくては、入れない。

イエス様を置きざりにして重荷を背負って砂漠の世を行く者ではなく、自己を置きざりにして砂漠の世をイエス様におぶって行ってもらう皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!


posted by リチャード at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする